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2015年5月13日水曜日

人間の顔をした世界資本主義者たち

フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行ですが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないですか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては"人間の顔をした社会主義"を求めたのに、今の左翼は"人間の顔をしたグローバル資本主義"で妥協する。それでいいのか?(ジジェク 2008)

「人間の顔をしたグローバル資本主義」とは何だったか。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

実際、ジジェクや浅田彰の観点からは、たとえば現在、安倍批判にのみ汲々としている「左翼」でさえ、「人間の顔をした世界資本主義者」であるだろう。そもそも一国だけ「いい子」になることのみを主張してなんの意味があるのだろう、--とまでは言わないでおくが。それが世界の「模範」となることだって夢想できるのだろうから。

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。(Slavoj Žižek speaks at Occupy Wall Street)
ホルクハイマーが1930年代にファシズムと資本主義について言ったこと--資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである--は今日の原理主義にも当てはまる。リベラルデモクラシーについて批判的に語りたくない者は原理主義についても沈黙すべきである。(Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?


ところで一年ほどまえに流れ聞いた西沢大良氏という建築家の方のツイート(2014.6.30)がひどく印象に残っている。

安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん

※詳しくは、「資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)」を見よ。これはあきらかに安倍政権の「資本の欲動」になすがままに溺れるありさまを指摘している。


冒頭の文にある「フクヤマ主義者」についても捕捉しておこう。

ジジェクはフランシス・フクヤマの、1989年夏書かれて世界的なセンセーションを巻き起こした論文『歴史の終わり?』について、浅田彰との対談で次のように語っている。

私のフクヤマに対する批判は、彼がヘーゲル的でありすぎるということではなく、まだ十分にヘーゲル的ではないということです。十分に弁証法的ではないと言ってもかまいません。というのも、ヘーゲルが繰り返し強調しているのは、ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間でもあるということなのです。(「スラヴィイ・ジジェクとの対話」初出1993 「SAPIO」浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

では具体的に1989年以降どんな「分裂が露呈」されているのか。

実際、勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」の なかにあって人権や社会保障などを享受している、「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を分か つ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内 部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう。このように、とことんヘーゲル的に言うなら、自由民主主義は構造的にみて普遍化され得ないのです。(同上)

国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできている境界線とは、いま実際に日本でも容易にみることができる。最近では、この境界線をベルリンの壁の崩壊後の、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》(ジジェク『ポストモダンの共産主義 ―はじめは悲劇として、二度めは笑劇として ―』First as Tragedy, then as Farce,  2009)としている。

ラカンは早くも六0年代に、今後数十年の間に新たな人種主義が勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するだろうと予言した。…最近のナショナリズムの激発は、おそらくラカン自身もここまで予想外しなかったであろうと思われるほど、予感が的中したことを…証明している。…この突然の衝撃は、一体どこからその力を引き出しているのだろうか。ラカンはその力を、われらが資本主義文明の基盤そのものを構成している普遍性の追求の裏返しとして位置づけている。マルクス自身、すべての特殊な・「実体的な」・民族的な・遺伝的な結束の崩壊こそ、資本主義の決定的な特徴であるとしている。(ジジェク『斜めから見る』1991 p302)

…………

ジジェクやバディウ、あるいは日本なら柄谷行人らの、すくなくとも90年以降の仕事は、資本主義を批判して、「新しいコミュニズム」がいかにありうるかを考える仕事といってよいだろう。

共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を揚棄する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生じる。(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

ところでそれはエティエンヌ・バリバール、Bensaid等によれば、民主主義とは何かを考える仕事でもある。《民主制が原理的には「永続革命的」であるほかない》(Bensaid[2009])

だが、民主主義については、ここでは諸家のいくつかの見解を並べておくだけにしよう。

チャーチル曰く、「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」

チョムスキー曰く、「国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる」(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)

バディウ曰く、「現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である」

ブキャナン&ワグナー曰く、「現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない」

ジジェク曰く、《不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。マルクスが大昔に指摘した通り、秘密は形式自体にある》

同ジジェク曰く、《いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある》

同じく、《トロツキーの議会制民主主義に対する批難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることではなく、むしろ、逆説的にいえば、大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ》

さて「新しいコミュニズム」の思想家ジジェクと柄谷行人の文をまずは貼り付けておこう。

現代的理論の仕事は二重化される。一方で、マルクス主義者の「 政治経済学批判」を反復すること、但しその固有の標準としての「コミュニズム」というユートピア主義者のイデオロギー的概念なしで、である。他方で、資本主義者の地平から真に脱出することを想像すること、但し均衡のとれた(自己)拘束された社会ーー大抵の現代環境保護論がその誘惑に負けている前-デカルト的傾向ーーの前近代的概念に回帰する罠に陥らないで、である。(ジジェク、LESS THAN NOTHINGーー「ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち」)
マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.7-8)
われわれは二〇世紀にコミュニズムがもたらした悲惨な帰結を忘れてはならないし、その誤謬をたんに偶発的なものと見なすべきではない。われわれはけっしてナイーヴに積極的に理念を語ることを許されていない。それはスターリニズムを否定してきた新左翼についてもあてはまる。しかし、その結果、コミュニズムを嘲笑することが「時代の好尚」となった今日において、別の、同様に「甚だしく独断論的」な思考が栄えている。また、知識人が「道徳性への不信」を表明している間に、世界的に、文字通りさまざまな「宗教」が隆盛し始めた。われわれはそれを嗤うことはできない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p10)

(次回に続く)