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2015年4月29日水曜日

ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。(バディウAlain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008)

もちろん「理解」しなければならない。

二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策について、《この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。》(ジム・バニング共和党上院議員)などといってはならない。かつまた、マイケル・ムーアのように、この緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出しても致し方ない。というのは、銀行が破産したときに、真っ先に苦しむのは一般大衆だからである。

緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことthe wrong thing for the right reasonsをしている一方で、緊急援助の発案者は誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasonsをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは非推移的なnon-transitiveな関係なのである。すなわちウォールストリートに善いことは一般の人びとに善い必要はないが、一般の人びとは、ウォールストリートが病気になったら、栄えることはできない。そしてこの非対称性はアプリオリにウォールストリートを有利な立場に置く。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

われわれは、現在のシステムの内にいる限り、《誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasons》をするほかない。


今宵、計画通りにやってみましょう。うまくいけば、
先方は邪な心を抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて邪な行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう。〔シェイクスピア『終わりよければすべてよし』第三幕第七場〕

Why then to-night
Let us assay our plot; which, if it speed,
Is wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act,
Where both not sin, and yet a sinful fact:
But let’s about it.


現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。

 その理由はごく単純なものです。ファシズムにおいては、私たちが抱えていたのは、「全てのプログラムはこれをやることだ。この悪事をなすことだ」と言っていた悪い奴らです。違いますか?なのに、彼らが権力を掌握した後で悪事をなしたのは、何たる驚きでしょうか!ですよね。共産主義において、私たちが抱えていたのは正真正銘の悲劇です。だからこそ反体制派や常に内部党争があったのです。だから――とはいえそれは終わったことです。

 これが意味することは何でしょうか?それが意味するのは、もう虚仮威しは止めようじゃないか、ということなのです。私たちは既存のシステムの限界を理解しています。それこそが私の拠って立つ基本的な立場です。

 人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。

 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェク 「今や領野は開かれた」


さて、ジジェクの言い方なら、新しいコミュニズムを夢見るジジェクがユートピアンなのではない。彌縫策を繰り返す、そして彌縫策を支持する〈あなたがた〉がユートピアンなのだ。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

《覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。》(Slavoj Žižek speaks at Occupy Wall Street

…………


目的合理性(道具的理性instrumental reason)とは、マックス・ウェーバーの用語であり、社会的行為を4つに分類したものうちの一つ。新自由主義とは道具的理性が極まる状況だと捉えうる批判もある(参照:「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」)。

◆マックス・ウェーバーの4類型

目的合理的行為(instrumentally rational action)・・・任意の目的(用途)に適うと思って選択する行為。

価値合理的行為(value- rational action)・・・特定の価値に適うと思って選択する行為。

感情的行為(affectual action , emotional action)・・・社会の感情に適うと思って選択する行為。

伝統的行為(traditional action)・・・社会の伝統に適うと思って選択する行為。


ーーホルクハイマー&アドルノによる「目的合理性」批判、対象の処理と支配に関わる「道具的理性」に変質したものだとする批判がある。

…………

資本主義と共産主義は、目的合理性(道具的理性instrumental reason)の二つの異なった歴史的達成、二つ種ではない。ーー目的合理性自体が、資本家のものであり資本家との縁戚関係に根ざしている。そして「真に存在した社会主義」は不首尾に終わった。というのは、それは究極的には資本主義の亜種だったからだ。社会主義とは、「いいとこ取りhave one's cake and eat it」のイデオロギー的試みだったのであり、資本主義の鍵となる成分を維持したまま、資本主義から発生したものなのだ。

マルクスの共産主義社会概念はそれ自体、固有の資本主義者の幻想fantasyである。すなわち、マルクスが才覚溢れて描写した資本主義の拮抗作用antagonismsを解消するための幻想的シナリオである。言い換えれば、我々の賭けは、共産主義(十全に解放された生産性の社会)…の目的論的概念を捨て去るにしても、マルクスの「政治経済学批判」の主要部分、すなわち、資本家の(再)生産の自己循環的悪の循環へのマルクスの洞察は、生き残っている。

こういうわけで、現代的理論の仕事は二重化される。一方で、マルクス主義者の「 政治経済学批判」を反復すること、但しその固有の標準としての「コミュニズム」というユートピア主義者のイデオロギー的概念なしで、である。他方で、資本主義者の地平から真に脱出することを想像すること、但し均衡のとれた(自己)拘束された社会ーー大抵の現代環境保護論がその誘惑に負けている前-デカルト的傾向ーーの前近代的概念に回帰する罠に陥らないで、である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)


このジジェクによる、「社会主義は資本主義の亜種である」という認識は、すでに岩井克人が『終りなき世界』(柄谷行人・岩井克人対談集1990)にて、同じようなことを語っている、《社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならない》と。


【ふたつの資本主義】

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

資本の論理とは、ジジェクや柄谷行人によって「資本の欲動」と言い換えられる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」――相対的価値形態と等価形態――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなくて、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。」(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

後年、岩井克人は次ぎのように書いている。彼は、資本の欲動のなかでやっていくほかないという立場であるとしてよいだろう。すなわち、ジジェクの言い方ならユートピアンである。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』

もちろん、ピケティもユートピアンである(ピケティ、フリードマン、ジジェク三幅対)。

ピケティはユートピアンだよ、……すばらしいねえ、金持ちに80%タックスなんてね。しかも一国内でやったら税逃れがあるに決まってんだから、世界的にやろうっていうんだろ? ピケティ自身もいってるらしいな、資本に対する累進課税は、「ユートピア的」だってさ。どんな意味のユートピアか知らないが。

ピケティはわれわれを騙してんだよ、《 I think in this sense he cheats》--もっとも過去の経済データを分析するその膨大な手法の価値がそれで減るわけではないさ。お勉強にはいいんじゃないか。

オレはピケティに反対してるわけじゃないよ、80%のグローバル累進課税なんてすばらしいじゃないか。ああなんというユートピア! ただ問題は、それをしたら、金持連中は、逃道をさがすに決まってることだな。(ジジェク 意訳)

《ピケティの話。なんであんなに受けているか… 東浩紀「経済ではなく、やはり心の問題では」 浅田彰「資本主義でいいでしょ&再分配と承認で多文化主義」→ その程度ではダメ。中沢新一「ピケティはアメリカ人が読んで安心できるから。マルクスは安心できない。でも読んだら飽きる本》#genroncafe