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2015年4月18日土曜日

ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))とある。

これは原文では、《Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.》 (Scilicet 6/7, p.15)である。やや穏やかに「分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysantが自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ」とするべきか(分析主体とはラカン派では患者のこと)。

…………

上の文に書かれていることは異なった見解もあるだろう。ただジジェクが2012年の時点で、あのように書いており、ミレールもそういっているらしいことを示しただけである。その議論の正否は専門家の方々が判断したらいいことだ。ただ、現代のミレール派はどうやらこの線らしいことは、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」などでみた。


ここでは、一部のラカン派にて、分離やら「主体の解任destitution subjective」、あるいは症状(現実界の欲動)との同一化が精神分析の終わりといわれることがあるが、仮に分析を徹底的に押し進めるにしてもーージジェクの見解に反して、前中期ラカンの立場ととるにしてもーー、この「主体の解任」は必要条件であり、必要十分条件ではないだろうことを示しておく。

症状との同一化の創造的効果…この同一化は特殊な内容に属してる。(……)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」という考え方は、文字通り取られ得ないかもしれない。というのは、欲動は主体にとって異物のままであるから。欲動、あるいは対象aは、トラウマ的特性を保有している。ラカンは、症状から距離を取ることを強調して推奨した、「症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である」(Séminaire XXIV)。これが新しいシニフィアンの機能である。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーー「ラカン派の二種類のサントーム・症状」)

以下は、四年近くまえの松本卓也氏のツイートである。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也

おそらくここにある「主体の脱解任」は主体の解任から脱するという意味なのだろうと憶測する。それが、《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)なのだろう。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

そもそも「主体の解任」とは、神経症領域にあるものが精神病的になってしまうことではないか、としばらく思案していたのだが、漸くそのような見解を示す文に昨晩巡りあった。

分析の終りとして後期ラカンの仕事によって提唱されたサントームとの同一化(自らのリアルを名付けることとしての)は、決して永久的な主体の解任、精神病的な象徴界の無-機能になることではない。(Lorenzo Chiesa)

これは、ジジェク編集の『Lacan: The Silent Partners』(2006)のなかの論文(Lorenzo Chiesaによる「Lacan with Artaud」からである。




…………


以下は、昨年からツイッター上で「ツイッターセミネール」をしているラカン派の小笠原晋也氏の主体の解任(氏は「主体滅却」 destitution subjectiveとの訳語を与えている)をめぐる発言である。これは安易に読むと誤解を与える言明に満ち溢れているが、肝腎なのは、黒字強調した文であるはずだ(これは半年以上にわたる彼のツイートから”destitution subjective”をめぐる発言の大半を拾ったものである)。

精神分析は,自我無き主体を成起せしめることを目ざす,という意味のことを Lacan は 1953-54 年に既に言っています.それは,imaginaire としての a を純粋な穴としての a へと滅却することとして最終的に公式化されます.

そのことを Lacan は 1967 年に主体滅却 destitution subjective と呼んでいます.それは,ex-sistence 解脱実存そのものとして存有することであり,要するに「解脱」と呼び得るものです. 
自我理想も,signifiant a の一形態です.死の本能,攻撃本能が仮象 a を破壊することによって aliénation の構造が解体され得る.このことが,後の Lacan の主体滅却 destitution subjective の概念の種となりました. 
何が『無意識の位置」』の書において重要かと言うと,まさに séparation の概念です.séparation は 1967 年に destitution subjective と命名し直され,精神分析の終わりにかかわる概念となります.言い換えると,Lacan が精神分析の終わりを初めて規定することができたのは,séparation の概念を以てです.

séparation と destitution subjective の概念無くしては,精神分析は Freud が言ったように,unendlich に,際限無く続けざるを得ないことになります. 
父の名に話を戻すと,1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.

つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ barré に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome : 症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます
精神分析の終わりの必要条件は,Lacan が『École の分析家についての1967 年 10 月 9 日の提起』において destitution subjective と呼んだものです.

destitution は constitution の 反 意 語 で す . Lacan は 実 際 , ま ず は constitution du sujet について問いました.

主体は如何に定立されるのか?その答え:主体は aliénation として定立される.

つまり,aliénation の構造,異状の構造 a/φ barréが,主体の consititution, 主体の定立の構造です.

destitution subjective という Lacan の表現をわたしは「主体の滅却」と訳していますが,その訳は残念ながら destitution という語の意義を十分には表現していません.先ほど constitution を「定立」と訳しましたが,それも理想的な翻訳ではありません.

constitution は,或る者を或る役目に就ける,任命する,ということです.辞書の例文では,或る弁護士を自分の代理人に任命する,というときにconstituer という動詞を使います.

それに対して destitution は,解任,罷免です.解任,罷免は,当然,何らかの重要な役目,高い職位に就いていた者をその地位から降ろす,ということを含意しています.

destitution subjective は,構造 a/φ barréにおける能動者の座,支配者の座に位置する signifiant a — その場合,signifiant a は,同一化の徴示素であり,自我理想です — をその座から追い出す,分離する,ということです.

主体は,自我理想としての signifiant a との同一化において,主体として異状的に定立されています.その同一化は,症状を成す同一化でもあります.

そ の よ う な 主 体 の 異 状 的 同 一 化 を 解 体 す る こ と , そ れ が destitution subjective, 主体滅却です.

小笠原晋也氏のようにマテームを多用してラカン理論を説明する立場(とくに死の欲動≒享楽、小笠原用語であるならφ barré)へのジジェクによる批判を附記しておこう。

サントームはマテームと対立させるべきだ。どちらも"自然と文化のあいだ"、意味のないデータと意味のあいだの謎の空間に属しているとはいえーーその二つは両方とも、前-記号的、意味の領野の外にあり、かつまたシニフィアンであり、それ自体ポジティヴなデータの無意味な織物に帰し得ないとはいえ、ーー"サントーム"は、Eric Santnerが"生の過剰"と呼ぶものを固定/登録する最小限の形式の名である。ひとつのサントームは、享楽の過剰を圧縮したひとつの形式なのであり、この領野ははっきりとマテームにおいては欠けている。マテームの典型的な事例とは、数学的に形式化された科学的表現であり、マテームはどんなリビドー的注入も意味しない。それはニュートラルであり、脱主体化している。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012)

とはいえ、ミレールの直弟子であった小笠原氏はときにすばらしい情報を与えてくれる。

Jacques-Alain Miller はしばしば [ A / J barré ] という学素を黒板に書いていました.

おそらく「斜線を引かれた享楽J barré」とは、死の欲動と捉えうるものだろう。


「アンコール」における「サントーム」の図

さて、この図の対象aがサンブランとされていることをどう扱うべきか。対象aは現実界ではなかったのか? それは、「Pure Psychoanalysis,Applied Psychoanalysis and Psychotherapy」に上の簡略図を掲げて、ミレールのいささか苦しげな説明があるが、いまはそれに触れるつもりはない。ただ図とその前後の文章だけ英訳のまま掲げておこう(ミレールさえこうなのだから、シロウトはラカンに安易に近づくべきではないと言っておくべきか、--すなわち私のようなシロウトは?)

the term objet a is one which calls the status of real into question. When one reads Lacan too fast - even if one tries to slow one's reading - there's a shock of perceiving that, in Chapter VIII of Encore, he downgrades objet a from the register of the real.





It is truly here that we see the preparation of this breakthrough that the later Lacan was orchestrating. The triangle is oriented by its vectors and it is on the vector that goes from the symbolic to the real that objet a is inscribed, precisely as a semblance.

I emphasized this formerly, I should say without success, because everyone held absolutely that objet a was real. Everyone insisted on the miraculous metaphor of knowledge in the real. While Lacan indicated that objet a was rather on the side of being than of the real. He even qualified it as semblance of being, and he noted that objet a itself, this still latent referent which could take the place of supposed knowledge, cannot be supported in the approach of the real.


※わたくし自身はこの対象aの取扱いを、『ジジェク自身によるジジェク』(“Conversations with Žižek Slavoj Žižek, Glyn Daly” 2004)によっておそらく初めて表れた(わたくしの知っている限り、である)、real Real, symbolic Real, imaginary Realの三つの現実界に近づけて読みたい気がするのだが、それはただ気がするだけである。

…………

※附記

基本的には、最近のミレール派(フロイトの大義派)のスタンスは次のようなものらしい。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

小笠原氏の考え方はかくの如し。

Jacques-Alain Miller は,Lacan の教えをその時間的な展開において区切って整理しようとします.そのような考え方は「最晩年の Lacan」という Miller の表現にも表れています.それはひとつの解釈です.わたしも大いに助けられました.

しかし,今はわたしはむしろ,Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています.(小笠原晋也ツイート)

…………

※追記


なお、上に引用した赤坂和哉氏の『ラカン的臨床への助走』には、第二臨床「幻想の臨床」について書かれている箇所に、ラカンを引用しつつ、主体の解任の説明がある。

次に「幻想の臨床」を見ていこう。幻想の臨床とは、幻想を横断し、欲動に直面することである。もう少し言葉を足そう。幻想は、主体において主体の分割を覆い、自分の欲望が何であるかを知っていると想像させる。しかし、幻想の横断において、空の対象aとの出会い ... を通して、 主体は大文字の他者とは欠如においてしか関係を持たないことを体験し、 彼の欲望に関する確信は揺らぐことになる。この経験によって、幻想は失墜し、主体は解任される

「その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する」(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écrits)

この臨床では、主体の象徴化の残余を分析していくのであるが、そこで対象となる主体は、対象aが主体の現実的な一要素であるという意味において(Le Séminaire, Livre VI)、対象aとしての主体と言うことができよう。

この見解についても、下に、ヴェルハーゲの対象aの捉え方を示す文章を並べておこう。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

《純粋な形での対象a、もしくは欲動》=《純化された症状》ということになるが、この純粋な形での対象aという表現と似たようなものは、すでに『セミネールⅩⅠ』にもみられる。

(ラメラは)リビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』