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2015年4月16日木曜日

女の祭りとしての「かなまら祭り」

ろくでなし子@6d745

(´-`).。oO(ろくでなし子はダメでかなまら祭りはなぜOKなんだという意見もよくあるが、かなまら祭りの神社の人とも飲んだけど、あの人たちも警察とずっと闘ってる。かなまら祭りがダメになった時は、日本が取り返しがつかない時だ

ーーというツイートをすこし前に眺めて、「かなまら祭り」にほとんど無知なものとして、どんなぐあいのものなのか探ってみたことがある。といってもウィキペヒアに書かれていること以上にはでない。





川崎市の金山神社にての祭りであるらしく、起源はそれほど古いわけでないようだ、《江戸時代に川崎宿の飯盛女達が性病除けや商売繁盛の願掛けを行った「地べた祭」に端を発する。金山神社は明治以降寂れてしまっていたが、昭和40年代くらいから性信仰が残る神社としてにわかに外国の民俗学者たちから注目されるようになる》とのこと。

金山神社の「金山」が「金魔羅」と読み替えられるようで、「金山神社・金山神社郷土資料室」PDFには次のように記されている(上記のウィキペディアの記述と重なる箇所が多いが)。

■御祭神は金山比古神(カナヤマヒコノカミ)と金山比売神(カナヤマヒメノカミ)。俗称「かなまらさま」と呼ばれ、境内の各所には大きな男性のシンボルが鎮座する。子孫繁栄、夫婦円満、安産、性病除けなど、性神として広く信仰を集め、近年ではエイズ除けとしても有名。

■毎年4月の「かなまら祭」では男根を象った神輿が担ぎ出される。

■イザナミノミコトが火の神を生んだ際、下腹部に大火傷を負い、これを治療したのが金山比古神と金山比売神の両神と伝えられる。もともとは鍛治屋の神で、社殿内部には鍛冶屋の作業場が再現されており、鍛治で使う「ふいご」や炉が置かれている。ふいごで火を起こす時の動作が男女の和合に似ていることから、夫婦円満、子孫繁栄、お産や下半身の病にご利益があるといわれている。

■江戸時代に川崎宿の飯盛女たちの下半身の病除けの地べた祭りに端を発し、かなまら祭りが行われるようになったと伝えられている。

■毎年、鍛冶職人や金物を扱う会社・工場などによって神前にて祭事「ふいご祭」が11月1日に行われる。





わたくしは70年代の後半から80年代の初めころまで、東京で学生生活をおくったが、当時は「かなまら祭り」の話題など、寡聞にしてか、耳にしたことはなかった。

比較的欧米外国人に人気があるのは、彼らの国では、キリスト教にて母性崇拝がほとんど根絶されてしまったせいで珍しがられるせいらしい。聖書というのは、やはり、この点においては、とんでもない「悪」を犯したわけだ。

彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…
「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」

「結局のところ」、彼女の夫が諦め顔で言う、「フェミニズムは反ユダヤ主義じゃないが、ユダヤ教をそれ自身から救うことを提案しているんだろ?」(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

…………

画像検索してみて眺めるかぎり、かなまら祭りのオブジェについては、ちゃちであったり、はりぼて風の印象を覚え、たいした感興をおぼえないが、参加している女性たちのさまには、いささか心が動かされる。




この画像でもオブジェや男たちではなく、左隅に平然と構えている女たちのさまに、なにやら彼女たちの逞しさのようなものーー男たちを手玉にとるかのごとくーーを感じ、あらためて、ああ世界は女たちのものだ、と呟きたくなる心持に襲われるわけだ。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

かなまら祭りの起源が上にみたように、《江戸時代に川崎宿の飯盛女達が性病除けや商売繁盛の願掛けを行った「地べた祭」に端を発する》のであるなら、この祭りは、やはりいまでも、本来的に、女たちの祭りではないだろうか。




女性による支配が続いた時代には、女性は、自分たちが特有の魔法の力を持っていることに満足し、必要なときにはいつでも借りられる男性の小さな道具を羨んだりしなかった。実際、太母神は男根に不自由することなく……男根はいつでも手許にあった。それは女神の聖所の目立つところに置かれ、特別の神あるいは人間の男根ではなく、単に男根そのもの、都合のよいときにいつでも使える没個性化された道具であった。一度使うと、それは役立たなくなった。太母神にとっては、今日の彼女の末裔の、ある者たちにとっても同様だが、ペニスは消耗品であって、いつでも次のものが手に入り、おそらく新しいものは前のより、よりよいように思われる。新しいものは、もちろん若い。そしてみずからが消費され、若い男に(女神に対する性的奉仕と全般的奉仕の両方において)代えられる運命にあるという恐れが、中年の男性にとって、ときには深刻な不安感の原因となりうるのである。(Wolfgang Wolfgang,The Fear of Women 1968)





この祭りに訪れたり参加したりするある種の男たちは、ひょっとして居心地が悪くなる場合があるのではないだろうか(わたくしも、画像を眺めているだけで、やや居心地が悪い気分になるのを否定するつもりはない)。

以下は、ベルギーの気鋭の精神分析家ポール・ヴェルハーゲの、フロイトの悪評高い「ペニス羨望」は、実は女性にあるものではなく、男性にあるものだという思いがけない指摘である。

実に、フロイト用語における、去勢不安と女性のペニス羨望は、生物学的な岩盤である。その上で、すべての分析は堂々巡りを余儀なくされる。われわれは後にラカンがいかにこれを変化させたかを見るだろう。まず何よりも先に、われわれは、女性のペニス羨望と男性の去勢不安の典型的なジェンダーの特異的分布に注意を払ってみよう。私の見解では、それはまったく逆なのだ。ペニス羨望は、典型的な男性の心配事であり、他方、不安は女性の側に見出される。

そのうえ、これらのふたつの特性は愛とセックスの組み合わせを決定づける基本の幻想の核心を作りだすので、ジェンダー固有の倒錯を決定するだろう。この転倒を理解するために、われわれはファルスとの関係のそれぞれの性の立場を、ある動詞によって代表させることができる。男性側においては、妥当な動詞は、持つto haveであり、女性側はなるto beという動詞である。

「持つことと持たないこと」とはヘミングウェイの反響としてもある。他者の欲望に応答として、男は実にファルスを持っている、それについては疑いはない。唯一のトラブルは、彼はけっして十分にそれを持っていないことであり、彼の密かな恐れは、それについての説得力がないことであり、他の男たちは彼よりもよりよく備えているのではないかということである。すなわち彼は彼らと競争しなければならない。

この状況から生れるこ絶え間なく現存する羨望は、典型的な男性の競争を生む。小さな少年の放尿コンテストから始まり、スターウォーズに終る。私は以前の論文で、これを男たちの「ギネスブック記録ヒステリー」と名づけた。(……)

男にとって、すべての重要性はファルスのパフォーマンスに置かれる。彼はパートナーも同じ先入観を持っていると予期し、彼女を満足させようとして、ファルスの骨へと己れを駆り立てる。この状況は、安っぽく陳腐なハードコアポルノ映画に描かれている。十分に満足していない女たちと、そして繰り返し繰り返しくたくたになるまで続ける男たち。

彼が、日常生活の現実いおいて、彼女の欲望は、それほどには崇められたファルスに向けられているわけではなく、なにがまったく別のものに向けられているのを思いがけず発見するならすばらしいことである。これをもとにして、彼の絶望的な"Was will das Weib"、女はなにを欲しているのか?という問いが生じる。他方で、女は継続する関係にその才覚を注ぎ込む。というのはそれが、彼女にとって唯一の方法だから。彼女がパートナーにとって最も重要な対象――すなわち、彼のファルスであるーーという承認を授けられるための、そして単なる性的な遊び友達、多くの可能なもののひとつではないということを認められるために。

こうやって、ファリックな男性のパフォーマーに直面しての彼女の失望、そして典型的な不平が生れる。「彼は私を愛していない、ただ私を使いたいだけなのよ」。性と愛の問いにおけるこの典型的な相違は、すでに引用した表現を確信させる、「セックスするために、女は理由が必要だが、男は場所さえあればよい」。(『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 Paul Verhaeghe)ーー男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」)





かりに「ペニス羨望」に襲われない男たちがいても、あれらの女たちの勇姿をみて、どこか彼女たちの、男たちをばかにするような微笑みを感じないことはないか。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳--すべての「女」は娼婦である





「女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ」(西脇順三郎)






なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)




もっとも居心地が悪くなったり、女たちにバカにされているような気がするのは、わたくしが旧世代に属するせいだけなのかもしれない。旧世代、すなわちヴァージニア・ウルフの描く男たちの最後の名残りの世代である。

女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。
文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。
つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。
鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。(ヴァージニア・ウルフ『私ひとりの部屋』





かなまら祭と似たようなものとして、「どんつく祭」(静岡県賀茂郡東伊豆町稲取にあるどんつく神社)、「豊年祭」(愛知県小牧市の田縣神社)、同じく「豊年祭」(大縣神社 - 愛知県犬山市にある神社)、「ほだれ祭」(新潟県長岡市下来伝地区)があるそうだが、祭のある地域が豊かな米作地帯(すくなくともかつては)であることに気づく。

次の画像は、田縣神社の「豊年祭」における上品な若奥様の「坊や、なんのよ」である(わたくしはこの近郊に幼少時住んだことがあるのだが、三歳前後のことでありもちろん覚えていない)。