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2015年4月10日金曜日

ラカン派の二種類のサントーム・症状

【サントームとの同一化と症状との同一化】


ジジェクはかつて、「サントームとの同一化」という表現を使った(「症状との同一化」という表現もあわせて使った)。最近の著書では、サントームとの同一化とは言わなくなった。ただ症状との同一化のみである。

たとえば、90年前後の初期のジジェクの書では、“identification with a sinthome”、あるいは“identify with the sinthome”という形で現われる。

幻想Fantasyは、〈大他者〉、象徴的秩序が、あるトラウマ的な不可能性のまわりに構造化されている事実を隠蔽する。その不可能性とは、象徴化できない何か、例えば、享楽のリアルである。幻想を通して、享楽は飼い馴らされ、"上品化されるgentrified"。故に、幻想を"横断"した後、欲望には何が起こるだろう? セミネールXIの最後のページにおけるラカンの答えは、欲動、究極的には死の欲動である。"幻想の彼岸"には、どんな切望も、どんな種類の崇高な現象もない。"幻想の彼岸"には、われわれはただ欲動を見出すだけである、すなわちサントームのまわりの脈動を。"幻想の横断"とは、それ故、サントームとの同一化identification with a sinthomeと厳密に相関的である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)
この外―存在としてのサントームの次元は、症状や幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症状として)解釈することも(幻想として)通り抜けることもできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程での最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化するidentify with the sinthomeことである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるというこの経験こそ、精神分析過程が終わったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症状ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点であるーーー 《ジョイスの精神病の言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症状ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようという試みであった。自分の症状と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。》(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, "Preface," in Joyce avec Lacan)(ジジェク『斜めから見る』1991
 ※より詳しくは、たとえば「外-存在」の定義などは、女は男のサントームであるUne femme est pour tout homme un sinthome」の後半を見よ。

他方、ジジェクの代表作といわれる二つの大著『パララックス・ヴュー』(2006)、あるいは『LESS THAN NOTHING』(2012には、サントームとの同一化という表現はでてこない。「症状との同一化」だけである。

症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

あるいは、『パララックス・ヴュー』にはこんな表現さえある。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.

ーーこの文は、サントームとは意識的な「父の名」であると言っているようなものである(後述)。


さて、ジジェクがサントームとの同一化という表現を使わなくなったのは、なぜなのだろうか?

まずはサントーム概念の意味を復習してみよう。このサントームは、すくなくとも五つの意味が諸家によって提示されている。

サントームsinthomeとは、症状symptom 聖人saint home 聖トマスSaint Thomas (〈大他者〉、あるいはキリストを信ぜず、独自の道を歩んだ者) 罪人sin-homme 模造人間synth-homme である。

これ以外に、⑥サントームとは、もともとラカンのジョイスのセミネール(セミネールⅩⅩⅢ)で多様に語られたものであり、ジョイスにおけるサントームとは、父の名(正確に言えば象徴的ファルス)が排除された前精神病的資質を備える人物が、精神病を発病しないための、支柱としてのサントームである。すなわちサントームは父の名の代替の機能を果たす。

ジョイスについてのセミネールが明示しているのは、サントームが父の名の役割を取り得ることだ。ラカンは、皆にジョイスの例に従い〈大他者〉の欠如の場所に自身のサントームを創造するようにと勧めている。この創造行為の目標は、父の名のシニフィアンなしで〈大他者〉を機能させることである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq“Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”)

おそらくこの⑥の意味でのサントームが、すくなくとも臨床的には、最も重要である。

⑤の仮に模造人間としたsynth-hommeは、ジジェクによる、《synth-hommesynthetic-artificial man, synthesis between symptom and fantasy》(1989)という解釈もある。しかもミレールによる次のようなサントームの解釈の試みもあることを附記しておこう。

Sinthome = Symptom + fantasme (Jacques-Alain Miller

【二種類の症状】


サントームを①の意味で使用するなら、サントームとの同一化は、症状との同一化にひとしい。だがそれは二種類ある症状の意味のどちらを使っているのか混乱を招きやすい。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)ーー二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

ポール・ヴェルハーゲが言っているように、フロイト・ラカン派にて「症状」と言われるとき、二種類あることに注意しなければならない。

後期ラカンにおいては「症状」の意味が変わったこと。これについても、ふたたびポール・ヴェルハーゲ他の要領を得た文を掲げておくことにしよう。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

※追記:“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”は小笠原晋也氏によって、「症状は,こう定義するしかない:それは,各人が無意識を悦する様態である – 無意識がそう定めるがままに」(Jacques Lacan, le 18 février 1975, Séminaire XXII RSI.)と訳されているのに遭遇したので、ここに追記しておく。



この叙述にあるとおり、純粋な対象aそのものも、後期ラカンの「症状」のことーー前期ラカンの症状ではないーーであり、かつまた欲動(死の欲動)のことである。「純粋な」とあるように、そうでない対象aーーイマジネールな水準の対象aーーもあるということだ。

純粋な対象aとは、すでにラカンにおいてセミネールⅩⅠに現われている〔否定的な形だが)。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

この代理物の対象a以外の純粋な生のリビドーが後期ラカンの原初の症状 a であるが、とはいえ上にヴェルハーゲの文を掲げたように、《ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために》なのだ。



【二種類のサントーム】


上に見たように、後期ラカンにおいての「症状」は、サントーム(のある一面)と同じものである。

Joyce に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptômeとも書きます(小笠原晋也

だが、サントーム自体も少なくとも二つの意味がある、ここでの、サントーム=症状以外に、新しいシニフィアン=サントームの創造という意味でのサントーム、「父の名」の代替物としてのサントームという意味がある。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

ここで、ジジェクの『Conversations with Ziiek Slavoj Zizek and Glyn Daly』(2004)からの対話文を掲げてみよう。邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』とされる書からだが、わたくしは手元に邦訳がないので、自ら訳して掲げる。

私が指摘したい第一のポイントは、ラカンにとっての現実界は、永遠にそこにあり、全く不変のものではない、ということだ。ある種の人びとが考えているのとは反対に、現実界は不可能だとするラカンの考え方は、あなたは現実界について何もなしえないということを意味しない。精神分析の根本的な掛金、あるいは希望は、あなたは、象徴界を以て、現実界に介入できるということだ。ラカンがサントームと呼んだもの(ラカンによる症状の新しいヴァージョン)は現実界である。それはあなたの享楽を構造化する象徴的な現実界である。そしてポイントは、象徴的な介入を通して、この構造を変化させ得るということだ。現実界は、あなたがそれを異なったやり方で象徴化する以外はなす術もない、触りえない中心的な核の類ではない。否! ラカンのポイントは、あなたは現実界に介入できるということだ。ラカンにとって精神分析の根本的領野はーー少なくとも後期ラカンにおいてはーー、もはや単純に再象徴化ではない。そうではなく、何かが実際に起こるということだ。精神分析において、真の変革が起こるのだ、あなたの享楽の基礎的な様相、ーーそれはまさに主体としてのあなたの現実界の領野ーーその様相を変化させた時に。だから精神分析の基本的な掛金は、あなたは、言葉によって物事をなし得るということ、その物事は、あなたの享楽の様相等を変えるものである。


ここにあるように現実界に介入するものとしてのサントーム。これが最も肝腎なサントームという用語の使用法である。

ここで、ふたたびポール・ヴェルハーゲ他の論文から、ここまで述べてきたことのまとめのような核心的文章を抜き出すことにする。

症状との同一化の創造的効果…この同一化は特殊な内容に属してる。(……)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」という考え方は、文字通り取られ得ないかもしれない。というのは、欲動は主体にとって異物のままであるから。欲動、あるいは対象aは、トラウマ的特性を保有している。ラカンは、症状から距離を取ることを強調して推奨した、「症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である」(Séminaire XXIV)。これが新しいシニフィアンの機能である。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」とは、ラカン後期概念の「症状」(サントームのある側面とイコール)との同一化であり、それは《文字通り取られ得ないかもしれない》のだ。同一化しつつも、それから距離を取ることが肝要なのである。

 Séminaire XXIVのラカン自身の言葉も掲げよう。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7


【サントームの臨床】

以下はミレール派のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)の一部私訳である。この論文は、2008年もしくは2009年に書かれているはずである。

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽のひとつ、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化のリンクをする。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽のお茶を濁す方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。

サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。

※附記

もうひとつ、エリック・ロラン(彼はミレールに次ぐフロイトの大義派(Ecole de la Cause freudienne)を代表する分析家)の”Psychosis, or Radical Belief in the Symptom (2012)”を訳しておこう、とはいえ超訳であり、わたくしがそう読みとったという内容であるため、十分に原テキストを参照してもらわないと困る。

普通の精神病〉?(あんまりマジでうけとるなよ)…そのうち「精神病」という語彙は時代からズレてしまうさ…代わりに〈普通の妄想〉だよ……

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「普通の父の名」さ。(エリック・ロラン 超訳 2012)


ーーなお、当然のことながら、ここに書かれている見解とは異なった見解もあることだろう、多様な解釈がなされるラカンのテクストであるのだから。

(おそらく続く)