このブログを検索

2015年4月5日日曜日

去勢されていない「全能の母」

さて、二つの前投稿、すなわち「獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代」と母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」で展開された論旨に依拠するなら――自らの文に依拠する、というのもおかしなものだが、引用が主であるので、その引用に依拠するなら、ということであるーー、象徴的ファルスの介入が欠けていたり(すなわち「象徴的去勢」がなされていない)、あるいは不十分であったりする連中は、「お前は去勢が不十分だ」あるいは「君は去勢されていないんだよ」ではなく、「あなたは去勢されていない母親を持ったままだ」ということになる。これなら正統的ラカン派の言明である、すくなくともわたくしにはそう思われる。

日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。(柄谷行人)

というわけで、この言い方は、厳密に言えばーーラカン的観点からはーー、間違っている、いや誤解を生みがちだ、とだけしておこう。日本人の子どもは「去勢」が不十分なのではなく、日本人の母の「去勢」が不十分なのである。

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)

もっとも母の去勢が不十分であるとは、母が強すぎて「去勢されていない母」――ファリックマザーと言いたいところだが、この語もいろいろな意味で使われるので遠慮しておくーーであるせいかもしれず、あるいは父が弱々しくて母の去勢ができない場合もあるだろう。後者は、フロイトの事例では、「少年ハンス」である。


「ママにもおちんちんあるの?」
「もちろんよ、なぜ?」
「ただそう思っただけなの」
(……)
あるとき彼は就寝前に脱衣するのを固唾をのんで見まもる。母親が尋ねる。「何をそんなに見ているの?」
「ママにもおちんちんがあるかどうか、見ているだけよ」
「もちろんあるわよ。あなた知らなかったの?」
「うん。ママは大きいから、馬みたいなおちんちんをもっていると思ったの」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』ーー少年ハンス(フロイトとラカン

ラカンはハンス少年の母に言及して次ぎのように言っている。、"caractere d'invasion dechirante,d'irruption chavirante" (Lacan,Le Seminaire IV, pp, 259-260)

ハンスの母は貪り食う全能の母として現れたのである。

ハンス少年の分析テキストにおける誤解を指摘されているフロイト自身、実のところこういった母の側面に気づいていた節もあるらしい。たとえばポール・ヴェルハーゲは、ハンス少年についてのフロイトの次のようなオリジナルノートがあることを示している。


Has it ever occurred to you that if your mother died you would be freed of' all conflicts, since you would be able to marry?" (Freud, S.Origillal Record of the Case_ S.E. X, p. 283),

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ラカンは次のように注釈しているそうだ。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるほど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

ーーところで、わたくしはなぜこんなことに関心があるのであろうか・ ・ ・

それは敢えて言うまでもないことかもしれないが、わたくしの母が「全能の母」であったせいではないか? だが、ここでは個人的なことはできるだけ書かないようにしている。

ただ、わたくしは、人から、とくに女友だちから、マザコンと思われ、自身もそう認めていたにもかかわらず、母の葬儀のおり(50歳、わたくしは24歳)、悲しくなかったことだけは白状しておこう。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…(アルベール・カミュ『異邦人』 英語版自序ーー母親の葬儀で涙を流さない人間

(おそらく続く)


追記:と書き上げて投稿し、ツイッターを眺めたところ古井由吉botがこんなことを言っている。

@furuiyo: 大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(「文芸思潮」2010初夏)