このブログを検索

2015年4月13日月曜日

中上健次と「父の名」

「人工的捏造物」として「聖痕」を抱えた『枯木灘』の秋幸」に引き続く。

表題を《中上健次と「父の名」》としたが、ここで「父の名」について説明をするつもりはない。

ただし,ラカン派にて「象徴的ファルス」の介入によって「父の名」の隠喩が機能するといわれる場合に、「象徴的去勢」という用語が使われるが、この「去勢」は、まずは子どもの去勢ではなく、「母の去勢」が本来の意味であることは念押ししておこう。

すなわち、「父の名」が機能していないということは、まずは母が去勢されないままであるということである(参照:「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」)。

それ以外に、ジジェクの比較的新しい書(2012)から、次の表現を拾ったので、ここに掲げておく。

①le‐Nom‐du‐Père父の名→le‐Non‐du‐Père父の禁止

②le‐Nom‐du‐Père父の名→les non‐dupes errent
 (二つの言葉は同じ発音であり、後者は(父の名に)騙されない者は間違えるという意味)

③le‐Nom‐du‐Père→le‐Nom‐du‐Pire悪化の名→ 死の欲動

…………

自分には名前が三つある、と秋幸は昔思ったことがあった。実際にそうだった。秋幸はフサの私生児としてフサの亡父の西村という籍に入り、中学を卒業する時に義父の繁蔵が自分の子として認知するというカタチで竹原に籍に入った。その男は浜村龍造と言った。(中上健次『枯木灘』)

中上健次自身、『枯木灘』に書かれているのと同じように、「父の苗字」を三度変えている。

図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」)

このような状況で育った子供は、「父の名」の分離機能、すなわち母親との密着した共生関係、距離のない不安定な関係からの分離機能が、十分には働いていないはずである。もっとも「父の名」の機能は、父の不在とはあまり関係がない。たとえば場合によっては祖母でさえ父の名としての役割を担うこともある(三島由紀夫の祖母のように?)。

問題は父親にたいする母親の関係、《単に母親が父親にいかに対応するかだけではなく、母親が父親の言葉、正確には父親の権威、にどのような地位を与えるか、いいかえれば法のプロモーションにおいて母親が父の名のために空けてある場所をどうするか》である(ラカン『エクリ』 p.579

中上の母千里が中上純一にどのような態度であったのかはよく分からないが、小説から読み取れる範囲では、ある程度の「地位」を与えていたとすることもできる。ただし「弱い父」である。

そして中上健次の場合、義父の苗字を与えられて、原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放されるということが全くなかったと断言するつもりはないが、「中上」という「父の名」は、十分な分離機能を果していたとは思われない。

僕はすべてのものを憎んでいる。姉を悲しませ、兄を殺し、僕をまでも辱しめ苦々しく窒息させたすべてのものを憎んでいる。あの頃から僕は僕自身のための神話をなくしたのだ。僕の体には、人々にみすてられた廃屋の井戸のように雑草がぴっしり生えはじめたのだ。(……)

僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな屍のことも僕は忘れない。(中上健次『海へ』)
兄が死んだ。朝、僕は仲間たちと山学校する約束があったので、いそいで朝食をたべている時、姉とヒロポン中毒が体をふるわせながらとびこんできた。姉は台所にはいってくるなり「母やん!」とどなり、朝の光をうけたまま朝食をたべつづけている僕をおどろかせた。母は姉の叫ぶ声をきいただけでみんなわかったように、顔を苦しげにゆがめている姉の体を抱き、そして二人で犬のうめくような声をだして泣き始めた。

「兄やんがくび、つったんよ……」(中上健次『犯罪者永山則夫からの報告』 )
僕は子供なのだ。涙でまぶしくみえる台所の中に、僕の母と兄と姉と、嘘の父がいる。みんなそれぞれ黙りこんでしまった。兄と母が喧嘩をしようと、母と姉が喧嘩をしようと、母と父が喧嘩をしようと、子供の僕にはまったく関係ないことだ。なにひとつわからない。次第に酔いがさめてきたらしくしきりに台所の水を飲んでいる兄をみながら、僕はみんなで劇をやっているような感じを抱いた。ほんとうの母とほんとうの父と、おおきくて強い兄と、賢い姉と、僕の五人でつくる、平凡な家庭があって、金曜日の夕食後、深刻だが間の抜けた劇を、演じている。いま僕らは仮面をかぶって、それら各々の役柄に合った服装をつけた名俳優たちなのだ。(中上健次『一番はじめの出来事』)
生き残っている者はすべて裏切った、子供の時のぼくはせっかくうまくいっているこの家での父と母と父の子と母の子の四人の生活を、誰にも壊されたくないと思った、そして鉄斧や出刃包丁を持って、ぼくたち四人をほんとうに惨殺することもできないくせに「殺したる」と言って暴れに来る兄を憎悪した。それは本当なのだ、嘘いつわりない十二歳の時のぼくの感情なのだ。(中上健次『眠りの日々』)

さて、ここでいったん「父の名」を文字通り、すなわち父の苗字ーーあるいは父によって名付けられた名ーーとして取ることもできるというポール・ヴェルハーゲ=ラカンの見解を復習しておこう。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

中上健次の置かれた環境において、この「父の名」の分離機能が上手く働いていなかったのではないかという想定のもとに、わたくしは今こうやって書き綴っている。もし「父の名」の隠喩が働かなければ、母は貪り食う全能の〈大他者〉として露われる、というのがラカン派の主流の考え方である。

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

ここでもまたポール・ヴェルハーゲのわかりやすい説明で補っておこう。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

ところで、中上健次の晩年の傑作『千年の愉楽』には次のような近親相姦の叙述がある。

あおむけに達男は山の茂みの中にたおれ,オリュウノオバは達男の上に重なり,ふと達男が笑みを浮かべもしない真顔で自分を見ているのを知り,恐ろしくなった。達男がオリュウノオバの乳をまさぐり,丁度腹の下に巌のようにふくれ上った一物が当たったのに気づいて,オリュウノオバは自分から達男に触れたのを忘れたように身をふって金切り声をあげ,起き上ろうとして組み敷かれた。

十五の達男の流した汗が黄金の光りから鉛に変り,輝きがとれるたびに若い衆の刃鋼のような体が現われ,オリュウノオバは産んだわが子と道ならぬ事をやり, 畜生道に堕ちるように心の中で思う。 (中上健次『千年の愉楽』)

そして、そもそも近親相姦の原型とは、父と娘ではなく、母と子であったことを思い出しておこう。

去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」)

ここから逃れるためには、中上健次自ら「複数形の父の名Les Noms-du-Père」のひとつを発明しなければならない。それは「父の名」と同じ機能を果し、母との共生関係、あるいは始原の母ーー"caractere d'invasion dechirante,d'irruption chavirante" (Lacan,Le Seminaire IV, )ーーに貪り食われないための支えとなる。そうでなければ、母に、海に、吞み込まれてしまう。《海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。》(三好達治)。

水の中にはいっていると、皮膚がなくなってしまい、体がとろけたようになってしまう。(『一番はじめの出来事』)
ぼくは寝そべったまま、耳の穴に舌を入れてくすぐってくる海の波音を感じていた。(『眠りの日々』)

そもそも初期短篇で、上のように書いた中上健次が「海=母」に対面してどうして呑み込まれないでいられるというのか。

僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
僕とはいったいなんだ?
僕の僕とはいったいなんだ?(海へ)
おまえが
僕の心の中のあの怒りの海につながっているのなら
歌え
人々についての呪いの歌を
そして
三月のつめたいひかりみたいに
死んでいった
にいやんにおくる
挽歌を(海へ)


中上健次の自ら発明した「父の名」とは、「路地」であるのではないか、という仮定は前投稿にいくらか記述した。そこで引用された文をいくらかくり返せば次の通りである。

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)

そして友人であった四方田犬彦の次の言葉は、決定的な響きをもっている。

俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)

くり返せば、中上健次の「路地」あるいは「路地の私生児」は、ジャン・ジュネが「泥棒」というシニフィアン、すなわちサントームSinthomeと同じ役割を果たしていたのではないかという想定の下で、わたくしは書き綴っている。

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen)には、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論であり、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていた“よい子”のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。

ラカンは新しいシニフィアンの発明をめぐって、その最晩年、こう語っている、

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(ラカン「セミネールXXIVーー「ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン」)

ここでの新しいシニフィアンsignifiant nouveauが、「サントーム」の大別して二種類ある意味のうちのひとつである(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。

さて、前回も蓮實重彦を引用してこう記した、蓮實は《これらの長篇を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである》(『小説から遠く離れて』p172)と書いており、この文章は禁止の命令として響かないでもない。だがここは敢えて精神分析的に解読する「破廉恥」さを引き受けて、ラカンを持ち出したということだ。それは《どんな不注意な読者でも見逃しえない》形で露呈されているのだから。

やはり上のようないささか独断的とも思われる見解を、ラカンに依拠して書くのは、かなり気がひけるものであり、ここでは重ねてこう引用しておこう。

それは『闘争のエチカ』(柄谷行人との対談集」の蓮實重彦による「あとがき」の文章であり、《批評は小説の解読装置ではなく、小説こそがわれわれを、あるいはわれわれの理論を解読する装置なのである》と読みうる叙述である。

伝統的な小説が前衛的な小説にくらべてものわかりのよさそうな表情を浮かべているというのではありません。筒井康隆だって、安部公房だって、薄気味の悪いほどものわかりがよく、その点では村上春樹と変わりません。こうした一連の闘争放棄は、小説がみずから装置であることを止め、読まれるべき言葉としてあっさり解読装置に身をゆだねてしまうことからくるものです。批評家の手にしているものが解読装置であって、小説がその装置によって解読される対象でしかないようにすべてが進行してしまい、そのことに、小説家も、批評家も疑いの目を向けようとすらしていないという現状が納得しがたいものに思われたのです。

しかし、この関係は不健康に転倒している。装置であるのは、むしろ小説の方なのです。装置でありながら、何の装置だか使用法がわからないものとして小説が存在しているのでなければならない。そして批評家は、その目的や使用法を心得た人間ではないはずです。ましてや、装置を解読する装置が批評なのでもないでしょう。小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つか見当もつかない粗暴な装置であり、であるが故に、小説は自由なのです。批評家は、使用法もわからぬままにその小説を作動させる。それが、小説を擁護するということの意味なのです。

(おそらくもう少し続くだろうが、それは補遺程度かもしれない)