2015年4月30日木曜日

ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)

Jacques Lévy(ジャック・レヴィ)は、中上健次の『奇蹟』を仏語に翻訳し、野間文芸翻訳賞を受賞したことで知られるが、彼の論文『訳し損なわれた文字』を眺めていると、次のような記述がある(これは誰が邦訳したのか、ジャック・レヴィ氏自身の日本文なのか、どうもそのあたりがよく分からないが、おそらく後者だろう)。

以下、メモとして掲げる。

図式的に説明すると、象徴的ファルスの記号としてあったΦは、現実(réalité)を支配する幻想(fantasme)の論理における、現実界(réel)が想像界に強いる表象不可能性としての欠如を示すのだが、その機能は「意味」の享受をゆるす、すなわち「意味作用」を支える、フロイトの「快感原則」に当たる、「かろうじて」の(余剰)享楽を確約するものとなる。

鏡像化不能たる身体の部分的「破裂」(身体から「破り取られる」対象としての乳房、糞便、声、そしてまなざし)として、欲望の原因である対象の欠如(この世の対象ではないという意味の「欠如」)を示す対象aは、精神分析家の言説が象徴界から現実界に迫る「解釈」という「行為」によって、「みせかけ」(semblant)、仮象の存在者の位置から、現実界がのこす「残滓」へと転落、消滅していくプロセス、すなわちリミットとしてのレトルそのものを示す。

そして、シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。なお、その享楽の領野は「性関係はない」という言葉で言い表わされるのと同時に、「エクリチュールの苦行は、それとともに性関係が成立するところの「それは書かれている」(un《 c'est ecrit》)に接合することによってしか終わることがないように私には思われる」と「リチュラテール」の最後の結びにうかがわしているように、意味作用のリミットとしてのレトルの彼岸に位置づけられる。

この箇所は(ジャック・レヴィ氏の論文にはその指摘がなされてはいないが)、もちろんラカンの『セミネールⅩⅩ(アンコール)』第八章にある「享楽の図式」(サントームの図)の説明である。



※参照:「アンコール」における「サントーム」の図

ジャック・レヴィ氏の叙述に、S(Ⱥ)について次ぎのようにあった。

シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。

以下、「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」から一部再掲する。


◆ブルース・フィンクの『後期ラカン入門: ラカン的主体について』第八章より。この書は日本でも最近(漸く)、翻訳がでたようだが、わたくしの手元に邦訳はないので、原文よりの意訳である。

第五章で、私はS(Ⱥ)を「〈他者〉の欲望のシニフィアン」として話した。そこでの文脈はセミネールⅥのハムレットのラカンの議論であった。ラカンのこの段階にては、S(Ⱥ)はシニフィアンとしてのファルスのラカンタームであるように見える。このような意味でラカンは初めてイマジネールとしてのファルス(-φ)をシンボリックとしてのファルス(Φ)から区別している。
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。
それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。
最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。

いま四つの段落に分けて抜き出したが、二番目の段落の”the signifier of the "first" loss.”とある箇所に註36がある。微妙な箇所なので(あるいは解釈がひどく分かれる箇所なので)、いいかげんな私訳ではなく、原文も附記しておく。

これはS(a)と書き得るかもしれない。注意しておこう、ラカンがS(Ⱥ) について言ったことの少なくとも一つは、私の解釈を裏付けないかもしれないことを。「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」(Seminar XXIV, May 10, 1977)。この引用が少なくとも明らかにするのは、この時点でのラカンの考えでは、S(Ⱥ)は、分裂した、あるいは斜線を引かれた〈他者〉であること、すなわち、不完全としての〈他者〉である。しかしながら、それを欠如したものとしての、あるいは欲望することとしての〈他者〉のシニフィアンとの等しいものとする限り、それは〈他者〉の欲望のシニフィアンに関係している。とすれば、それは、私は提案するのだが、S(a)と書くことができる。このように言うことによって、しかしながら、ファルス(Φ)と等しいものとみなせる。ここでの私の意味は、問題となっているのは、喪われたものとしての、あるいは母-子の融合の喪失としての母〈他者〉mOtherの欲望である。

This might be written S(a). Let it be noted that at least one of the things Lacan says about S(Ⱥ) may not confirm my interpretation: "S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ) " (Seminar XXIV, May 10, 1977). This quote at least makes it clear that S(Ⱥ) is, at that point in Lacan's thinking, the signifier of the divided or barred Other, that is, the Other as incomplete. Insofar, however, as that equates S(Ⱥ) with the signifier of the Other as lacking or desiring, it is related to the signifier of the Other's desire, which could, as I am suggesting, be written S(a). Thus stated, however, it could be equated with the phallus (Φ), whereas my sense is that what is in question here is the mOther's desire as lost, or the lost mother-child unity.

このフィンクのS(Ⱥ)=S(a)とする思い切った提案に言及しているのは、わたくしの知る限り(寡聞の身ではある)、Suzanne Barnardの「TONGUES OF ANGELS: FEMININE STRUCTURE AND OTHER JOUISSANCE』 だけである。

Returning to the notion of object a as an unsymbolizable scrap of the real, we could, perhaps, represent the real finding a signifier through the denotation S(a).註10 Hence, one can retroactively (re)read Lacan's account of the object in Seminar XI through the lens of his later account of sexual difference as a means of grasping what is at stake in the feminine subject's relation to S(Ⱥ) or to S(a).  
註10)I am indebted to Bruce Fink for this particular nomenclature and the way of conceptualizing S(Ⱥ) that it implies. He refers to S(a) as a notation for the real finding a signifer in a footnote to chapter 8,“There's No Such Thing As a Sexual Relationship,” in The Lacanian Subject: Between Language and Jouissance (Princeton: Princeton University Press, 1995), pp. 115, 195, n.36.

Suzanne Barnardは、この文のあと、ラカンのラメラの叙述(セミネールⅩⅠ)を引用している。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

S(a)という表記を利用すれば、「アンコール」のラカンと中期ラカン(たとえばセミネールⅩⅠやⅩⅡ)との繋がりが可能になる。アンコールにおける《性別化のレンズを通して、ラカンを遡及的に読めば》とSuzanne Barnardが記しているのはそういうことだ。

中期ラカンとは、たとえば《a は、現実界の位のものであるle a est de l'ordre du réel》(ラカンSéminaire XII)としたラカンである。

そして、アンコール(セミネールⅩⅩ)のラカンとは、次ぎのようなラカンである(参照:レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK))。

…対象aという用語が、現実界の位置にあることは疑問に付される…アンコールの八章で、ラカンが対象aを現実界の審級から降格しているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(ジャック=アラン・ミレール Pure Psychoanalysis, Applied Psychoanalysis and Psychotherapy 英訳2002

《ラカンが対象aを現実界の審級から降格している》にしろ、S(a)というマテームを利用すれば、象徴界でもあり、現実界でもありうる対象aをすっきり表現できるではないか。

ーーミレールさん、ナイーヴに驚いていないで、素直にS(a)を使ったらいいんだよ。


とはいえ、ジジェクのような立場もある。享楽(サントーム)やら、死の欲動、あるいは「性関係はない」などを現すのに、マテームなどやめておこうぜ、という立場だ。

サントームはマテームと対立させるべきだ。どちらも"自然と文化のあいだ"、意味のないデータと意味のあいだの謎の空間に属しているとはいえーーその二つは両方とも、前-記号的、意味の領野の外にあり、かつまたシニフィアンであり、それ自体ポジティヴなデータの無意味な織物に帰し得ないとはいえ、ーー"サントーム"は、Eric Santnerが"生の過剰"と呼ぶものを固定/登録する最小限の形式の名である。ひとつのサントームは、享楽の過剰を圧縮したひとつの形式なのであり、この領野ははっきりとマテームにおいては欠けている。マテームの典型的な事例とは、数学的に形式化された科学的表現であり、マテームはどんなリビドー的注入も意味しない。それはニュートラルであり、脱主体化している。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって




2015年4月29日水曜日

ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。(バディウAlain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008)

もちろん「理解」しなければならない。

二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策について、《この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。》(ジム・バニング共和党上院議員)などといってはならない。かつまた、マイケル・ムーアのように、この緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出しても致し方ない。というのは、銀行が破産したときに、真っ先に苦しむのは一般大衆だからである。

緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことthe wrong thing for the right reasonsをしている一方で、緊急援助の発案者は誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasonsをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは非推移的なnon-transitiveな関係なのである。すなわちウォールストリートに善いことは一般の人びとに善い必要はないが、一般の人びとは、ウォールストリートが病気になったら、栄えることはできない。そしてこの非対称性はアプリオリにウォールストリートを有利な立場に置く。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

われわれは、現在のシステムの内にいる限り、《誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasons》をするほかない。


今宵、計画通りにやってみましょう。うまくいけば、
先方は邪な心を抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて邪な行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう。〔シェイクスピア『終わりよければすべてよし』第三幕第七場〕

Why then to-night
Let us assay our plot; which, if it speed,
Is wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act,
Where both not sin, and yet a sinful fact:
But let’s about it.


現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。

 その理由はごく単純なものです。ファシズムにおいては、私たちが抱えていたのは、「全てのプログラムはこれをやることだ。この悪事をなすことだ」と言っていた悪い奴らです。違いますか?なのに、彼らが権力を掌握した後で悪事をなしたのは、何たる驚きでしょうか!ですよね。共産主義において、私たちが抱えていたのは正真正銘の悲劇です。だからこそ反体制派や常に内部党争があったのです。だから――とはいえそれは終わったことです。

 これが意味することは何でしょうか?それが意味するのは、もう虚仮威しは止めようじゃないか、ということなのです。私たちは既存のシステムの限界を理解しています。それこそが私の拠って立つ基本的な立場です。

 人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。

 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェク 「今や領野は開かれた」


さて、ジジェクの言い方なら、新しいコミュニズムを夢見るジジェクがユートピアンなのではない。彌縫策を繰り返す、そして彌縫策を支持する〈あなたがた〉がユートピアンなのだ。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

《覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。》(Slavoj Žižek speaks at Occupy Wall Street

…………


目的合理性(道具的理性instrumental reason)とは、マックス・ウェーバーの用語であり、社会的行為を4つに分類したものうちの一つ。新自由主義とは道具的理性が極まる状況だと捉えうる批判もある(参照:「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」)。

◆マックス・ウェーバーの4類型

目的合理的行為(instrumentally rational action)・・・任意の目的(用途)に適うと思って選択する行為。

価値合理的行為(value- rational action)・・・特定の価値に適うと思って選択する行為。

感情的行為(affectual action , emotional action)・・・社会の感情に適うと思って選択する行為。

伝統的行為(traditional action)・・・社会の伝統に適うと思って選択する行為。


ーーホルクハイマー&アドルノによる「目的合理性」批判、対象の処理と支配に関わる「道具的理性」に変質したものだとする批判がある。

…………

資本主義と共産主義は、目的合理性(道具的理性instrumental reason)の二つの異なった歴史的達成、二つ種ではない。ーー目的合理性自体が、資本家のものであり資本家との縁戚関係に根ざしている。そして「真に存在した社会主義」は不首尾に終わった。というのは、それは究極的には資本主義の亜種だったからだ。社会主義とは、「いいとこ取りhave one's cake and eat it」のイデオロギー的試みだったのであり、資本主義の鍵となる成分を維持したまま、資本主義から発生したものなのだ。

マルクスの共産主義社会概念はそれ自体、固有の資本主義者の幻想fantasyである。すなわち、マルクスが才覚溢れて描写した資本主義の拮抗作用antagonismsを解消するための幻想的シナリオである。言い換えれば、我々の賭けは、共産主義(十全に解放された生産性の社会)…の目的論的概念を捨て去るにしても、マルクスの「政治経済学批判」の主要部分、すなわち、資本家の(再)生産の自己循環的悪の循環へのマルクスの洞察は、生き残っている。

こういうわけで、現代的理論の仕事は二重化される。一方で、マルクス主義者の「 政治経済学批判」を反復すること、但しその固有の標準としての「コミュニズム」というユートピア主義者のイデオロギー的概念なしで、である。他方で、資本主義者の地平から真に脱出することを想像すること、但し均衡のとれた(自己)拘束された社会ーー大抵の現代環境保護論がその誘惑に負けている前-デカルト的傾向ーーの前近代的概念に回帰する罠に陥らないで、である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)


このジジェクによる、「社会主義は資本主義の亜種である」という認識は、すでに岩井克人が『終りなき世界』(柄谷行人・岩井克人対談集1990)にて、同じようなことを語っている、《社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならない》と。


【ふたつの資本主義】

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

資本の論理とは、ジジェクや柄谷行人によって「資本の欲動」と言い換えられる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」――相対的価値形態と等価形態――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなくて、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。」(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

後年、岩井克人は次ぎのように書いている。彼は、資本の欲動のなかでやっていくほかないという立場であるとしてよいだろう。すなわち、ジジェクの言い方ならユートピアンである。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』

もちろん、ピケティもユートピアンである(ピケティ、フリードマン、ジジェク三幅対)。

ピケティはユートピアンだよ、……すばらしいねえ、金持ちに80%タックスなんてね。しかも一国内でやったら税逃れがあるに決まってんだから、世界的にやろうっていうんだろ? ピケティ自身もいってるらしいな、資本に対する累進課税は、「ユートピア的」だってさ。どんな意味のユートピアか知らないが。

ピケティはわれわれを騙してんだよ、《 I think in this sense he cheats》--もっとも過去の経済データを分析するその膨大な手法の価値がそれで減るわけではないさ。お勉強にはいいんじゃないか。

オレはピケティに反対してるわけじゃないよ、80%のグローバル累進課税なんてすばらしいじゃないか。ああなんというユートピア! ただ問題は、それをしたら、金持連中は、逃道をさがすに決まってることだな。(ジジェク 意訳)

《ピケティの話。なんであんなに受けているか… 東浩紀「経済ではなく、やはり心の問題では」 浅田彰「資本主義でいいでしょ&再分配と承認で多文化主義」→ その程度ではダメ。中沢新一「ピケティはアメリカ人が読んで安心できるから。マルクスは安心できない。でも読んだら飽きる本》#genroncafe





2015年4月27日月曜日

レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK)

以下、メモだが、「享楽」はいろんな意味合いがある。最も基本的な定義のひとつとしてまずジジェクの文を先に掲げておこう。

享楽(jouissance)は英語のenjoymentにあたるが、ラカンの英訳者たちはしばしば、その過剰でまさしく外傷的な性格を伝えるために、フランス語のままにしている。享楽はたんなる快楽ではなく、快感よりもむしろ痛みをもたらす暴力的な闖入である。われわれはふつうフロイトのいう超自我をそのようなものとして捉えている。われわれに無理な要求を次々に突きつけ、われわれがその要求に応えられないでいるのを大喜びで眺めている、残酷でサディスティックな倫理的審級として。だからラカンが享楽と超自我の間に等号をおいたのは不思議ではない。楽しむというのは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうものである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 p.138)

かつまた、ラカンのセミネールⅩⅩ(アンコール)から、他者の享楽、ファルスの享楽、剰余享楽aの位置を示す図を貼付しよう。





※参照:『アンコール』第四講試訳

ところでアンコールには、厄介なことに下のような図もある。



この図を巧みに説明している解説に出合ったことが、わたくしはない(参照:「アンコール」における「サントーム」の図)、あるいはLevi R. Bryantによる「Sexuation 2– The Logic of Jouissance」及び、「Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)」)。

ラカンはかつて、《a は、現実界の位のものであるle a est de l'ordre du réel》(ラカンSéminaire XII)といいつつ、『アンコール』では、次のようなことらしい。

…対象aという用語が、現実界の位置にあることは疑問に付される…アンコールの八章で、ラカンが対象aを現実界の審級から降格しているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(ジャック=アラン・ミレール Pure Psychoanalysis, Applied Psychoanalysis and Psychotherapy 英訳2002





このミレールの英訳では2002年の講義録は、いつ行なわれたセミネールかは分からない。だがミレールでさえ、ある時期までは、このようなことに驚いているわけで、シロウトの身としては、むしろ安心して「誤解」に励んだらよろしい。

※Jacques-Alain Miller, "Paradigms Of Jouissance"(L'expérience du réel dans la cure analytique." Paris, 03/17/99)

さて、以下の文章にでてくる「享楽」は概ね剰余享楽aの話であるはずだが、あまり自信はない。ただわたくしはそのようにして読むというだけである。

…………

◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より

ラカンの枠組み内では、享楽の欠損deficitは、偶発的なものではなく、むしろ構造的なものである。…完全な享楽の構造的な不可能性は、なぜ享楽が欠けているのか、いかにこの欠如は乗り越えられるべきか、という幻想を生み出す。

例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。

レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。

このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、女嫌いmisogynyや同性愛嫌悪homophobiaに、同じように見出すのは難しくない。

この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。

他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。

結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。

ーーこのLevi R. Bryantは、以下に示すように、ジジェクのパクリのようなところもあるが、一般の人々により分かり易くまとめられているには相違ない。もちろん日本のレイシストたち(「在特会」に代表される)の心的メカニズムに思いを馳せることもできるだろう。



◆ジジェク『斜めから見る』1991他より

「他者」は(われわれの「暮らし方」を破壊することによって)われわれの享楽を盗もうとしており、かつ/あるいは、なにか密かな倒錯的な享楽を手に入れる。要するに、「他者」に関して、われわれの神経を逆撫でし、苛々させるのは、他者がその享楽を作り上げるその(こちらからみると)奇怪なやり方である(食べ物の臭い、「騒がしい」歌や踊り、風変わりな身振り、仕事に対するおかしな姿勢、等々。人種差別主義者の視点からみると、「他者」は、われわれの仕事を奪う労働中毒か、われわれに働かせて暮らしている怠け者か、そのどちらかにしか見えない)。根本的なパラドックスは、われわれの〈物自体〉は他者には絶対に手に入れられないはずなのに、それにもかかわらず他者によって脅かされている、ということである。(ジジェク『斜めから見る』 P308)

ーーこの文は、2012年の書にも似たような内容が記されている。そこではなんと日本人もレイシストの「攻撃対象」として掲げられている。

What we encounter here is indeed Id‐Evil, Evil structured and motivated by the most elementary imbalance in the relationship between the Ego and jouissance, by the tension between pleasure and the foreign body of jouissance at the very heart of it. Id‐Evil thus stages the most elementary “short‐circuit” in the relationship of the subject to the primordially missing object‐cause of his desire: what “bothers” us in the “other” (Jew, Japanese, African, Turk) is that he appears to entertain a privileged relationship to the object—the other either possesses the object‐treasure, having snatched it away from us (which is why we do not have it), or he poses a threat to our possession of the object. (ZIZEK,LESS THAN NOTHING)



《……ここには、一般的な知恵がもつ一片の真実がある。それによれば、「穏健」右翼と「極」右との違いは、前者が考えているだけであえて口には出さないことを、後者はずけずけ言ってのける、ということである。》(ジジェク『斜めから見る』P335)

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう…今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 (ジジェク『幻想の感染』)
人種差別の標準的な分析では、人種差別主義者たちは誤った教育を受けたか、無学で、犠牲者たちについて無知であることになっている。人種差別主義者が犠牲者となる人種を客観的に見て、彼らをよく知りさえすれば、偏見もなくなるだろう、とこの理論は続ける。たとえば、もしドイツの人種差別主義者が、トルコ移民がいかにドイツに貢献しているかを理解したら。フランスの人種差別主義者が、アルジェリアの共同体がフランスの名のもとにいかに文化的に重要な貢献を果たしてきたかを知りさえしたら。あるいは、イギリスの人種差別主義者が、第二、第三世代のインド人たちが英国の健全な発展にいかに貢献してきたかを理解することができさえしたら。しかしジジェクによれば、たとえ人種差別主義者たちがそういうことを理解したとしても、それでもなお彼らは人種差別主義者のままだろう。なぜだろうか?

答えは、人種差別を受ける主体は、個々の人間からなる客観的な集団ではなく、幻想上の人物像だからである。たとえば1930年代に、アーリア人種をひそかに陥れようとする国際的な陰謀があってその中心はユダヤ人である、などという考えはばかげている、という合理的な議論をしても、ナチスが説得されることはなかっただろう。ジジェクによると、ユダヤ人はそんなことはしていないと証明する経験的な証拠を、ナチスに示すことはできない。彼らは……現実に対する客観的な見かたを云々していたわけではないからだ。むしろ彼らは、ユダヤ人を幻想の枠組みで見ていた。そのため、彼らはそうした幻想の枠組みと、現実はどのようなものかという視点を対比することができなかった。幻想の枠組みの肝心な点は、なによりもまずそれがあなたの現実を構成していることだからだ。だからジジェクの推測では、もしあなたがナチで、真に友好的で「善良な」ユダヤ人が隣に住んでいても、あなたは自分の反ユダヤ主義とこの隣人とのあいだに、いかなる矛盾も経験しないだろう。むしろ、隣人が表面上はきちんと見えることこそ、ユダヤ人の危険を示す最高の証拠である、と結論を下すだろう。あなたは幻想の窓を通じてものを見ているので、反ユダヤ主義と一見矛盾するように見える事実こそが、まさに反ユダヤ主義を支える議論となりうるのである。(トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク』)


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012から「幻想の横断la traversée du fantasme」をめぐる叙述をいくらか抜粋(テキトウ訳→原文) 

……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。

………… 

“幻想の横断”とは現実の外に出ることを意味するのではない、現実の非一貫的な非-全体を受け入れ、それを“揺らめかす”ことを意味する。幻想fantasy概念、――それは部分対象とのわれわれの関係をぼやけさせる錯覚的なillusoryスクリーンとしての幻想だがーーそれは精神分析がなすべきことという通念に完全にフィットするようにみえるかもしれない。すなわちもちろん風変わりな幻想の支配から自由になり、ありのままの現実に直面するようにという通念である。だが、これはラカンが意図していることではまったくない。彼が狙っているのはほどんど逆のことなのだ。日常生活においては、われわれは“現実”(幻想によって構造化され支えられた現実)に浸っている。しかしこの浸没は症状によって乱される。その症状とは次の事実を証し立てるだろう、すなわちわれわれのプシュケ(心理的機構)の抑圧された別のレベルがこの浸没に抵抗していることを。

というわけで、“幻想を横断する”こととは、逆説的に、幻想とまったき同一化をすることを意味するのだ。――その幻想とは日常生活への浸没に抵抗する過剰を構造化させているものとしての幻想であるが。Richard Boothbyの簡明な定式では、“幻想の横断”とは、主体がどうにかしてきまぐれな空想に没頭するのを棄て去り、プラグマティックな“現実”に順応することを意味せず、まったく逆のことである。すなわち主体は、日常的な現実の限界にあらわれる象徴界の欠如の効果をあまんじて受け入れること。

…………

ラカン派の意味における幻想を横断することとは、心に思い描くことを超えた幻想のリアルな核とより親密な関係をもたらすという意味での幻想にかつてなくおおいにとらわれるclaimedことなのだ。Boothbyは正しく強調している、ヤヌス Janusのような幻想の構造を。すなわち幻想は、一方で鎮圧化、武装解除化の作用があり(〈他者〉の欲望の深淵に堪えさせてくれる想像的な(イマジネールな)シナリオを提供する)、他方で、われわれの現実に同化不能の粉砕化、攪乱化の作用がある。

.“幻想の横断”概念のイデオロギーかつ政治的な側面は、ボスニア戦争のあいだ攻囲されたサラエボのユニークなロックグループTop lista nadrealista(超現実主義者のTop List)によって明らかにされた。彼らの、戦争と飢えのさなかのアイロニックなパーフォーマンスはサラエボの人びとの苦境を風刺化したのだが、それはカウンター文化において熱狂的な地位を獲得しただけではなく、一般的なサラエボ市民のあいだでもそうだったのだ(グループの毎週のTVショウは戦争のあいだを通して異常な人気を誇った)。

サラエボの悲劇的な運命を歎き悲しむかわりに、彼らはユーゴスラビアで共有されていた“愚かなボスニア人”についてのクリシェのすべてを敢えて結集したのだった。すなわちそれらのクリシェとまったき同一化をしたのだ。ここでの肝要な点は、真の結束への道は、象徴的な空間に流布している鼻持ちならないレイシストの幻想と直接に対面すること、遊び心にあふれてその幻想に同一化することを通してであり、“人びとは実際にはこのようなんだよ”のために幻想を否定することを通してではないことだ。


◆ジジェク、ユダヤ人をめぐるいくつか

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)
ヒトラーのものとされる言明、「我々の内のユダヤ人を殺さなければならない」。A. B. Yehoshuaは妥当なコメントをしている。「このユダヤ人の破滅的な表現、嗅ぎつけることも制御することも出来ないまま、非ユダヤ人のアイデンティティに侵入するとらえどころのない実体としてのユダヤ人、この表現は、ユダヤ人のアイデンティティがひどく融通無碍である感情から発している。というのは、まさにその核が、変化してやまない電子軌道におけるヴァーチャルな電子に取り巻かれているある種の原子のように構造化されているからだ」。

この意味で、ユダヤ人は実際上、非ユダヤ人の対象aである。「非ユダヤ人のなかにあって非ユダヤ人以上のもの」、私の目の前で遭遇する月並みの主体ではなく、私の内のエイリアン、異人、ラカンがラメラと呼んだもの、無限の可塑性をもった侵入者、不死の「エイリアン」である怪物、それは決してある限定された形に突き止めるておくことのできないものである。

この意味で、ヒトラーの言明は、それが言いたい以上のことを言っている。それが意図された意味に反して、非ユダヤ人は、己れのアイデンティティを維持するために、「ユダヤ人」という反ユダヤ主義の形象が必要なことを裏づけている。ーーヒトラーが致命的につけ加えるのを忘れたことは、反ユダヤの彼、彼のアイデンティティもまたユダヤ人の内にある、ということだ。

ここには、ふたたびカントの超越論主義とヘーゲルの相違を位置づけることができる。この二人がとも見るのは、もちろん、ユダヤ人という反ユダヤ主義の形象は具体的なreifiedものではなく(ナイーヴに言うなら、それは「本当のユダヤ人」には合致しない)、イデオロギーの幻想(「投影」)であり、「私の目の中に」あるものである。ヘーゲルがつけ加えたことは、ユダヤ人を幻想する主体は、彼自身、「絵の中に」いるということだ。すなわち、まさに彼の存在自体が、「現実界の欠片」としてのユダヤ人の幻想に決定づけられているのだ。反ユダヤ主義のアイデンティティを取り除いたら、それを幻想している主体自身がばらばらになってしまう。肝腎なのは、客観的現実における「自己」の位置、「私が客観的にあること」の不可能な現実界における「自己」の位置ではない。そうではなく、私はいかに私自身の幻想の中に位置づけられているか、いかに私自身の幻想が、主体としての私の存在を支えているかである。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


◆幻想とは何か?(より詳しくは、「三種類の幻想、あるいは幻想と妄想」を見よ)

では幻想とは何なのか? 幻想において“実現されている”(上演されている)欲望とは主体自身の欲望ではなく、他者の欲望である。すなわち、幻想、幻想的な構成とは、“Che vuoi?” (あなたはなにを欲しているの?)という謎への答であり、それは主体の原初の本質的な(構成的な)立場を表わす。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹等々が、彼のまわりで戦いを繰り広げる。子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。もっとも基礎的なレベルでは、幻想は私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。

再び反-ユダヤ主義、反-ユダヤ人妄想を取り上げるなら、典型的な形でこの幻想の根源的な相互主観的性格を見てとれる。ユダヤの陰謀の社会的幻想とは“社会は私から何を欲しているのか?”という問いへの答を提供する試みなのであり、それは私が余儀なく参加させられるあいまいな出来事の意味を明るみに出してくれる。こういった理由で、標準的な“投影”理論、――その理論によれば、反-ユダヤ主義者はユダヤ人の姿に己れの否認された部分を“投影する”ということーーそれだけでは不充分である。“概念上のユダヤ人”の姿は、反-ユダヤ人の“内的葛藤”の外在化したものには還元されえない。逆に、主体は最初から非中心化されている、意味や論理はコントロールから逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分でしかないという事実を証し立てる。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

…………

※附記:Levi R. Bryant の名高いブログから(レイシズム、享楽とは関係なく余興)。

クリントンは政治権力上ではファルスを持っていた。だが…モニカは彼が去勢された主体であることが分かってしまった…私の友曰く、フロイトの「葉巻はただの葉巻だ」よ、と。…モニカが見出しのは、クリントンはファルスを持っているが、所有していないことだ。(Sexuation 1– The Logic of the Signifier
セミネール6までは、ラカンはシニフィアンに秩序に焦点を絞っていて、殆ど欲動、享楽は無視。この時期のラカンは楽観的に症状は解釈を通して消滅すると考えてうた。…この時期は大他者は存在すると信じていた(おバカな)ラカンである。意訳 (Sexuation 2– The Logic of Jouissance
スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

Levi R. Bryantは、熱心なジジェク読みであり、彼が《これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である》と書いているのは、ジジェクやラカンなどを信じ込みすぎるのは、悪性のナショナリズムと同じだよ、と言っている(自戒している)ことになる。

ーーこれはわたくしも同様。〈あなたがた〉のことは知らない。

他方、人は同一化しなければ真に学ぶことができない。ここにアポリアがある。

教育とは、要するにつねに送り届けるシニフィアンpassing signifiers、知の過程ということになる。教師から生徒への、である。この送り届けることは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は〈他者〉のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この〈他者〉に陽性転移した条件の下に、この〈他者〉によって与えられた知に同一化する。ラカン派の観点からなら、この同一化はつねに疎外である。〈他者〉によってもたらされたシニフィアンを取り入れることは、主体を、存在論的に、自らの異邦人strangerに変える。この疎外は、獲得と喪失をともに意味する。もちろん知の獲得がある。しかしこの過程はよりいっそう先に進む。主体によって取り入られた数々のシニフィアンに依存することによって、その外的な現実が同様に成長する。というのは、この現実は、まさに象徴的秩序によって決定づけられたものだからである。他方、われわれは喪失に捉われる。それは構造的に決定づけられており、先ずは現実界にかかわる。さらに具体的にいえば、存在-の-喪失"le manque-à-être"にかかわる。次に象徴界である。より具体的に言えば選択の喪失である。すなわち自らの欲望は〈他者〉の欲望につねに疎外される。

象徴界と現実界とのあいだの構造的な裂け目により、分離は教えられることはない。しかし教育は、分離のための欠かせない前提条件である。主体は充分な量の支えを与えてくれるシニフィアンとそれに伴なった疎外と知が必要である。その後ようやく、主体は支えの欠如のポイントを受け容れる。いったんこの点に到達したら、どのシニフィアンもどの知も地に落ちる。(「教えることと精神分析」Paul Verhaegheーーラカンの四つのディスクール論

人は三十歳ぐらいまでに、すぐれた書き手などに同一化(疎外)して学び、そしてそこから分離するのが、おそらく正しいあり方だろう。ラカンやジジェクに齢とってから出会うものではない(わたくしのように)。

『ツァラトゥストラ』の第一部は、次のような三つの変身の物語で始まっている。

「どのようにして精神は駱駝となるか、またいかにして駱駝はライオンとなるか、そしてライオンはついに小児となるか」。駱駝とは荷を担ぐ動物である。駱駝は既成の諸価値の重圧を担い、また教育の重荷を、道徳とか文化・教養の重荷を担いでいる。駱駝はそうした重荷を担いで砂漠へと向かい、そしてそこでライオンに変身する。ライオンは諸々の彫像を壊し、重荷を踏みにじり、あらゆる既成の価値の批判を断行する。そしてそのライオンの役目はついに小児となること、すなわち<戯れ>と新たな始まりになること、新しい価値および新しい価値評価の原理の創始者となることである。

(……)三つの変身のあいだにある断絶は、おそらくまったく相対的なものに過ぎないだろう。ライオンは駱駝のうちにも現存しており、ライオンのなかには小児がいる。そして小児のなかには悲劇的な結末が存在しているのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳)

一度も駱駝になったことのない人間は、これまた信用できない。

そして駱駝になった後、ライオン、あるいは小児にならなければならないのだが、世間には駱駝なしのライオン、小児が多すぎる。ライオンとは(あるいは小児とは)、かつまた分離とは、次のようなことである。

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

…………

ラカン理論など知る必要はないよ、慰安に耽っている連中には。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

きみたちが甘いお話系なのはよく分かっているさ。もし十万人に一人の割合で慰安系でない人間がいたら、日本だけで千人を超えるまともな人間がいることになる。とすればよくて百万人に一人ぐらいさ。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)

オレかい? もちろん慰安系に決まってんだろ!




2015年4月26日日曜日

ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行

以下は個人メモ(後に活用のため)。普段はこのように書いて、公表の資料として、もう少し説明的に書き直すのだが、長くなり過ぎそうなのでやめた。つまり「よい子」は無視して下さい。わたくし自身、「遡及性」をめぐって叙述すると混乱する部分がいまだある。すなわち、より関心の薄い人たちには、この文を読んでも、おそらく混乱するばかりだろう。

…………


さて、「フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって」に引き続いて、ジジェクの最初期の著作における叙述に拘ってみよう。

ジャック=アラン・ミレールは、その公表されていないセミネールで…、特殊排除から一般排除(もちろん遠回しに、アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を仄めかしている)について話している。

ラカンが1950年代に排除の概念を導入したとき、それが示したのは、ある鍵となるシニフィアン(クッションの綴じ目point de capitan、父の名)の、象徴界からの追放の特殊な現象だった。そしてそれが精神病を引き起こす、と。…

しかしながら、ラカンの教えの晩年において、この排除の機能は普遍的な領域に及ぶ。シニフィアンそれ自体の秩序にある固有の排除があるというものだ。我々が、ある空虚の周りに構造化された象徴的構造を持つ限り、ある鍵となるシニフィアンの排除を意味する。セクシャリティの象徴的構造化は、性関係のシニフィアンの欠如を意味するのだ。すなわち「性関係はない」ーー性関係は象徴化できない。それは不可能な、「互いに敵対する」関係なのである。

そして二つの普遍化のあいだの相互連関を掴むために、我々はシンプルに何度も何度も次の命題を繰り返さなければならない、「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。

現実界としての症状ーーこれは古典的なラカンのテーゼ、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立するように見える。症状は、すぐれて象徴的形成物、解釈を通して消滅させうる暗号化されコード化されたメッセージではなかったのか?…ラカンの全ての要点は、我々は、身体の想像的仮面(たとえば、ヒステリーに症状)の裏に、象徴的重複決定overdeterminationを見抜かねばならぬことではなかったのか? この外観上の矛盾を説明するために、我々はラカンの教えの異なった段階を考慮しなければならない。我々は、症状概念を、糸口、指標の一種として、ラカンの理論的展開の主要な段階を差異化することができる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』私訳)


 ここにあるように、ラカンの前期症状概念と後期のそれとの相違の把握は、おそらくとても重要である(それは症状のない主体はない》(ラカン)で、比較的詳しく見た)。

だが、今はその話題ではない。今まず注目したいのは、冒頭にあるミレールが言ったとされる《特殊排除から一般排除》が、《アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行》を示唆しているという叙述だ。このアインシュタインの理論への言及は、2006年に上梓された書にも次ぎのような説明がある。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)

フロイトは、最初に外傷(トラウマ)を、《象徴的座標を崩してしまう何か》だと考えたとある。これが特殊相対性理論である。

次にフロイトは態度変更して、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》とある。これが一般相対性理論ということになる。象徴界は最初から歪んでいるのである。そして外傷は遡及的に見出される。これがラカンの《原初とは最初のことでない》(『アンコール』)の意味である(参照)。


《物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している》、--トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である、ということになる。

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、トラウマには二種類ある。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)

 これはなにもラカン派だけの観点ではない。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

ジジェクの冒頭の叙述に沿えば、構造的トラウマ(原トラウマ)は、「性関係はない」ということである。ポール・ヴェルハーゲの説明ならかくの如し。

フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「男と女の愛には、心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。(Paul Verhaeghe『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 )
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)


「女は存在しない」やら「性関係はない」やらは、結局、最初の喪失にかかわる。だがこれは遡及的に見出される(後述)。

最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』私訳→原文は「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」参照)

そして、フロイト的にいえば「スフィンクスの謎」である(参照)。


…………

さて、いささか話が逸れたが、「トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と書き記した箇所に戻ろう。

この文を変奏してみよう、「症状は象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と。

ここでの「症状」は、前期ラカンの暗号化されたメッセージとしての症状ではなく、原トラウマとしてのーー「性関係はない」としてのーー症状である。

前期ラカンの症状は、象徴界、われわれの日常生活を歪める「原因」であった。だからそれを解釈によって取り除かねばならない。だが後期ラカンの症状は、象徴界の井戸の底にあるものであり、治療不可能なものの別名である。

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975ーー《症状のない主体はない》(ラカン)

 この原症状とでも呼ぶべきものがあるせいで、象徴界自体が歪んでいるのだ(くり返せば、論理的には、原症状が先にあるにしろ、見出されるのは遡及的に、である)。

《トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。》(向井雅明
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

象徴界自体の歪曲が、《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)の意味である。現実としての象徴界は、もともとしかめっ面なのであり、その歪曲が、原トラウマ・原症状(≒「性関係はない」)を遡及的に見出す。

According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity)(”Subject and Body Lacan's Struggle with the Real”Paul Verhaeghe)

ここにある「Nachträglichkeit」は、もちろんフロイト概念である。
別に、ヴェルハーゲには、「現実界は象徴界の非-全体の領域に外-存在する」とでも要約できる文がある(The Real ex-sists within the articulated Symbolic.……The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole.)。これはジジェクの見解と同様である(参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。ただし、このあたりは異論もあることだろう。

※ミレール直弟子の小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréは「性関係はない」を示し、これは「原去勢」あるいは「原トラウマ」とも翻訳することができる(事実、小笠原氏はランクの「出産外傷」概念をφ barré説明するのに使っている)。かつまた、80年代にミレールが提示した「斜線を引かれた享楽J barré」も同様に「性関係はない」を近似的に意味するものであろう。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

ジジェクは、1989年の『イデオロギーと崇高な対象』にてすでにこの見解を示していながら、2012年に至るまで、同様な見解をくどいほど繰り返している。すなわち、一般には未だなかなか理解されていないせいだろう(かつまた、ラカン派内部でも異なった見解があるということかもしれない)。

François Balmèsの変奏なら次のようになる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être 1999)
…………

もう一つ、冒頭のジジェクの叙述、後期ラカンの症状は、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立することをめぐって簡略に記す。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30ーーラカンのオーラ

このあたりは一般には先入観がある。たとえば中井久夫さえ次のように書いている。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)

中井久夫は自らラカンには詳しくないと言っているのでやむえないとしても、ラカン派と称されることもある斎藤環もかくの如し。

記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」2007)

…………

ところで、今ではわが国の代表的なラカン派二人とさえ言えるかもしれない向井雅明氏と松本卓也氏がつぎのような語らいをしているようだ(松本卓也氏ツイートからだが、いつ頃のものかは失念。それほど昔ではなく、この一年前後前ぐらいのもののはず)。

@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

@schizoophrenie: 簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

@schizoophrenie: ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

@schizoophrenie: 神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

これは冒頭のジジェクの文においては、「父の名は回帰しない」のは当然としても、「性関係はない」=原症状は回帰するということになる。再掲すれば次の文である。

「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。(ジジェク)

 だが、このあたりも見解の相違があるのかもしれない。

さらには松本卓也氏は四年ほど前、次ぎのようなツイートもしている。

後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と

そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.

(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 ーー「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)


ここにある《「父の名の排除」と「一般化排除」》とは、ひょっとして、特殊相対性理論と一般相対性理論の話ではないか。ーーとはいえ、無謀な憶測はやめておこう。

(このあたりはおそらく、この四月後半に発売された彼の実質上のデビュー作、『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』で明らかになっているのだろう。)





2015年4月25日土曜日

トラウマと主体性

レイプされたのはあなたのせいじゃない―被害に遭った女性ジャーナリストが、被害者を撮り続ける理由

――という記事を少し前に読んだのだが、その後、この記事をリンクして、次のようにツイートしている方がいるのに行き当たった。

寮美千子 ‏@ryomichico これは、奈良少年刑務所の教官がいつも話していることと合致。加害者の多くは、虐待を受けてきた子。

あれ? そんなことが書いてあったかなと疑問に思い、この方の別のツイートを眺めてみると、このようにある。

寮美千子 @ryomichico 【性欲よりも“支配欲” レイプ被害の真の姿とは?】 http://wotopi.jp/archives/15289 「性犯罪は性欲が強い人が行うと思われがちですが、アメリカでは、性暴力は性欲よりもむしろ支配欲によって行われると考えられています。他者を支配下に置きたい、コントロールしたいという欲望」

おそらくこの「支配欲」を《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という文における加害者の支配欲と読み取られたのであろう。

――というわけで、この寮美千子さんにも元記事のフォトジャーナリスト大藪順子さんにも何の文句を言うつもりもない。

ただ、大藪さんのインタヴュー記事には、《悪意のある人はいなかったですね。たとえば「加害者にリベンジしてやろう」というような。そうではなくて、前に進もうとしている》とあり、すなわち彼女が取材して写真を撮った性虐待を受けた方々は、加害者になっていないと語られている。

他方、寮さんの《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》というツイートは、それとは相反するということだけだ。わたくしと注目する箇所が異なったのだろう。

そして寮さんは、《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という奈良少年刑務所の教官の話を強調したかったのだろう。

今、わたくしはひどく曖昧に書いていることを自覚しているが、冒頭の記事だけではなく、大藪順子さんが発言されたり講演での語りなどにかかわる別の記事も三つほど読んでみた。とはいえ繊細に扱うべき問題なので、あまりシロウトの感想を書きたくない。そのための曖昧さである。

ただ写真を撮るという行為には、次のような側面はあるだろう。

カメラを持つ手が武器を握る手に見えないような奴はカメラマンを辞めろと藤原新也がどこかで言っていて、まあ何如にも藤原さんらしい言い方だが、このハードボイルドな断定が一時気に入っていて、本を読む姿が云々、コンピュータを見る目が云々、とか色々変奏させて人を判断していたことがある。(丹生谷貴志ツイート)
写真をとるということは、機関銃に似た固い物体を相手にむけるという行為である。写真をとることにも、とられることにも、私に抵抗があるのは、このためもあるらしい。つまり、私の心の中にある対人恐怖に、相手から攻撃されること、人を攻撃してしまうことの恐怖が加わって、写真というものを苦手にしているらしい。(中井久夫「顔写真のこと」『記憶の肖像』所収)
遥かな距離にある対象物に照準を合わせること、そして指の微妙な動きが成功と失敗とを分けへだてるという物理的な類似にとどまらず、ある攻撃的な衝動なしには達成されがたい振舞いとして、撃つことと撮ることとの心理的な類縁性が、すでに写真の発生期に、狩猟の快楽に目覚めたばかりの旅行家によって実践されている点に、われわれは改めて興味をおぼえる。ある種の征服欲の発現なしには、撃つことも撮ることも真の目的を遂げえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p607)



わたくしが、寮美千子さんのツイートに、ある穿った見解を書かれているのかな、と一瞬の錯覚を覚えたのは、これらの文が念頭にあったせいである。そしてそれは誤解であったことが分かった。


…………

◆いくつかの資料の列挙。

【一般論】

性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。

It's now an open secret that yesterday's victims of sexual abuse run the risk of becoming today's perpetrators. (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)


【トラウマとその治療】

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』中井久夫より抜粋)


【トラウマと主体性】

トラウマと主体性という組み合わせは奇妙なものに思えるかもしれません。トラウマというのは、主体がそれを経験するとき、まさに主体はそれにたいして何の主体的な行為もできずただ受動的に出来事を被るだけです。主体は何の準備もなく、不安さえも感じず、何も理解できないまま突然出来事に巻き込まれます。ですからトラウマ的体験に出会うときには主体性の欠如があるといえるでしょう。ではトラウマを語るにおいて主体性というものを問題にする必要はないのでしょうか。

ひとつの例を挙げてみましょう。これはすでに他のところでも紹介したものです* 。

1973年8月にストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件が発生しました。その事件を有名にしたのは、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明したこと、そしてまた、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったほか、1人の人質が犯人に愛の告白をし結婚する事態になったことなどです。そこからストックホルム症候群と名付けられました。

これについてウィキペディアは次のように書いています。「犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。また「警察が突入すれば人質は全員殺害する」となれば、人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。ゆえに人質を保護する側にある警察を敵視する心理に陥る。このような恐怖で支配された状況においては、犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される。

上述のように、ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)であるため、通常は、人質解放後には、犯人に対する好意は憎悪へと変化する」。

しかしこうした心理学的説明ではどうして事件の後で犯人との結婚にまで至ったのかが説明できません。

フランスの分析家ジャン-ジャック・ゴログはこの事件について次のような解釈を与えています。「ストックホルム症候群は、主体が受動的に被った出来事に、それがあたかも自分自身の選択であるかのような意味を与えるという大きなメリットがある」

つまり、人間は偶然に被るトラウマに甘んじることはできない、運命にいたずらに引き回されるだけでは生きていけないということです。天からふってくるようにおこる人質事件の被害者であっても、そこで主体的な行為によって自分自身を関与させることでトラウマを逃れ事件を生きることができるのです。そこに主体的行為があったからこそ事件後結婚にまで至ったのです。人間の行為は行為をなした者の以後の言動をも決定するからです。

もう一つの例は有名なフロイトの「糸巻き遊びの子ども」の例です。この例は「快感原則の彼岸」でフロイトが死の欲動を導入するための動機のひとつとしてあげています。人間に取ってもっとも大きなトラウマのひとつは母親からの離別でしょう。この子は母親がこの子を残してどこかに出かけるとすぐに紐の付いた糸巻きを投げオーオーオー「fortあっち」と叫び、つぎに糸巻きを取り戻してダー「Daここ」と嬉しそうに叫ぶのです。フロイトによると、子どもは母親の喪失を受動的に被るのだが、その苦しみを逃れるために子どもは離別のシーンを糸巻きによって能動的に再現し、あたかもそれは子ども自身が積極的に行った行為のように扱うのです。フロイトはこう言います「子どもたちは生活のうちにあって強い印象をあたえたものをすべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者となることは、明らかである* 」つまりトラウマ的体験たいして主体的に立ち回ることでトラウマによる苦痛をのがれることができると言うことです。これらの例が示すのはトラウマに対抗するには主体性というものが必要であるということです。

ラカンはこの子どもの遊びのなかの糸巻きを、子どもが自分自身から切り捨てる対象であると言っています。子どもはこうやって対象喪失を引き受け主体として母親から分離して生きていくのです。ここには対象と主体、ラカン用語では小文字のaと斜線を引かれたS/があります。 ラカンは対象と主体がある形で結びつくことをファンタスムと呼び、それをS/<>aという記号で記します。この子どもの遊びの中にはしたがってファンタスムの構造が見られるわけです。(向井雅明『精神分析とトラウマ』ーー 2014年一月26日京都大学における公開シンポジウム「トラウマと反復精神分析の臨床」における発表





2015年4月24日金曜日

《症状のない主体はない》(ラカン)

まず、〈ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって〉より、最晩年のラカンの精神分析治療の根本的態度変更とも解釈される言葉を再掲する。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

次に、米国哲学教師であるLevi Bryant――ドゥルーズ、ラカン、ランシエール、ジジェク等が研究対象であるーーの名高いブログから、「On The Symptom Posted by larvalsubjects」の一部を私訳する。

ジャック=アラン・ミレールが注釈しているが、「ボロメオの結び目」から「ラカンの結び目」への移行は、ラカンの症状についての思考における根底的な移行である。というのは、今や我々は、症状の一般的な理論を持つことになるからだ。この理論は、あたかも全てが症状になるかのようであり、そこでは「父の諸名」(複数の父の名)も含んで、症状なのだ。『セミネール23』(サントームのセミネール)でのこの展開の前奏として、『セミネール22』(RSI)にて、ラカンはこう宣言している、《症状のない主体はない》と。この新しい症候学は、現在までのところ、ほとんど未開拓のままであり、実りある臨床と理論上の仕事においての、(今後の)肥沃な土地である。伝統的な精神療法の取り組みとは異なり、ラカンは、フロイトと同様に、症状はひとつの解決法であり、満足の形式であるとのテーゼで始める。症状は、主体が正常さを得るのを邪魔する外部からの侵入物ではない。薬物を通して治療する病気でもない。この点に関して、「正常な」あるいは「健康な」主体は存在しない。そして精神分析の目標は、誰かを、神経症、倒錯、あるいは精神病から治療することであるなどと信じるのは、間違っている。これらは、主体の〈他者〉と享楽への関係のあり方と定義できる主体性の根底的なスタンスなのであり、病気ではない。


ところで、「症状」とは何でかったか。まずはよく知られているのは、ヒステリー転換症状(身体に転換された症状であり、チック症状なども含まれる)や、強迫神経症の強迫症状であろう。

前者は、DSMにより「ヒステリー」が死語になったので、現在は転換性障害と呼ばれる。

転換性障害の症状(……)、腕や脚の麻痺、体の一部の感覚喪失などは、神経系の機能不全を示唆するものです。他の症状として、発作、視覚や聴覚などの特定の感覚の喪失といったものもあります。(「転換性障害」)

わたくしは、強迫症状(強迫性障害)について、かつて岸田秀の『フロイドを読む』にて知って、--岸田氏は自らの強迫症状の起源・展開等を書き綴っているーーひどく興味を覚えたことがある。

本書は変な人が変な人について書いたものである。わたしと同じように、変な人の症例を読むのが好きな人たちに読んでもらえばさいわいである。(岸田秀「あとがき」より)

いまでは古くなっている箇所もあるが、とはいえ、なまはんかな小説よりはずっと面白い。わたくしには強迫症状はないつもりだが、別の変な症状が、若年時にあった。それゆえ、いっそう関心を覚えたのだろう。

強迫神経症、その他の「症状」については、フロイトの『制止、症状、不安』(1926)などに詳しい(山竹伸二氏のまとめがある)。

このフロイトの論文のまとめにわずかに触れられている最も重要な指摘だと思われる箇所、《症状形成はすべて不安を避けるために企てられたもの》をめぐって、もうすこし抜き出そう。

われわれは不安の発展を危険状況によるものとしたが、これからさらにすすんで、症状は自我が危険状況からまぬかれるためにつくられるといいたい。症状形成がさまたげられると、じっさいに危険がおそってくる。(……)

症状の形成は、危険な状況をすてさるという実際の効果をもっている。症状形成には二つの面があり、一つはわれわれには秘密のままで、エスの中にある変化を起こし、この変化によって自我が危険をまぬがれるという面であり、他はわれわれにむけられた面であり、影響をこうむった衝動過程のかわりにつくりだしたところの代理の形成である。

ところで、もっと正確に表現するとすれば、ちょうどいま症状形成についてのべたことを、防衛過程に帰さなければならないし、症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛の過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(フロイト『制止、症状、不安』フロイト著作集6 pp358-359)

次に、臨床医は、患者の症状とどのように対面するかをめぐり、ベルギーの気鋭の精神分析医ポール・ヴェルハーゲーー日本では殆ど知られていないが、すくなくとも英語圏では、現在フロイト・ラカンの代表的な論客の一人であるーーのまだ若かりし頃の論から引用することにする。1994年の論文であり、1955年生まれのヴェルハーゲの39歳時に書かれたものということになる。

よくある臨床状況から始める。患者は、耐えられなくなった症状があるために、我々のもとに訪れてくる。ヒステリーの文脈内では、この症状は殆どあらゆるものであり得る、古典的な転換症状からはじめて、恐怖症の訴え、性的/関係性的問題、そして最後にはもっと漠然とした憂鬱や不満の訴えである。

患者は治療者に自らの問題を提示する。そして標準的な期待は、治療の努力によって、症状が消滅し、かつstatus quo ante、すなわち以前の健康な状態に戻ることだとされる。これは勿論、とてもナイーヴな観点である。なぜひどくナイーヴであるかといえば、注目すべき小さな事実を考慮していないからだ。その事実とは、大抵の場合、症状は急性なものではなく、反対に、むしろ古くからの、何月も前からの、ときには何年も前からのものでさえあるということだ。

そのとき訊ねるべき問いは、勿論、なぜ患者はこの今、訪れたのか、なぜもっと早く来なかったのか、ということである。人はこの状況を観察すれば、常に同じ答えを見出すだろう、すなわち、主体にとって何かが変化し、その結果、症状はその正しい機能を失った、と。

症状が、いかに苦しく或いはいかに無価値なものであろうと、明らかなことは、この変化以前は、症状は主体にとってある種の安定化を確保してくれるものだったということだ。この安定化の機能が故障したときのみ、主体は助けを求めるのだ。これが、ラカンが治療者は患者に彼の現実に順応させようとすべきではないと述べた理由である。反対に、患者はすでにあまりにも順応し過ぎているのだ。というのは、患者はまさに現実の構築にいそしんでいるのだから。

この点で、我々はフロイトの重要な発見のひとつに出会う。それは、どの症状も先ずは回復の試みだということだ。一定の心理構造の安定化を確保する試みなのである。この意味で、我々は患者の期待を言い換えねばならない。彼は症状の消滅を求めているのではない、否、彼はただ症状の元々の安定化機能を修復して欲しいのだ、その機能は状況の変化のせいで故障してしまっているのだから、と。

これがフロイトがひどく奇妙な考え方、奇妙というのは、上で言及したナイーヴな観点の下ではだが、すなわち「健康への逃避flight into health」という考え方を提示した理由である。この表現は鼠男のケーススタディに見られる。治療者はまだ始めたばかりで、いくらかの成果しかない。そして患者は中断する決心をする。彼は遥かに改善していると感じるからだ。症状そのものはほとんど変化していないが、見たところ、それは患者を悩ましていない。ただ驚いた治療者を悩ますだけである。(Paul Verhaeghe,PSYCHOTHERAPY, PSYCHOANALYSIS AND HYSTERIA)

さて、今でもナイーヴな臨床家たちはいないだろうか。精神科医はいざしらず、心理療法士と呼ばれる種族には、おどろくべきナイーヴさを呈した発言がツイッター上で見られるが、ここでそのツイートを掲げるのは遠慮しておこう。かわりに標準的な心理学者(あるいは精神科医でさえも)とフロイト・ラカン派を中心にする「症状」への姿勢の相違を指摘する次の文を掲げておこう。

医療診断学において、症状は、底に横たわる傷害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳ーーラカン派の「記号」と「シニフィアン」)

ーーこれがフロイト・ラカン派でも実際このようなものなのかどうかは、シロウトの身として知るところではない。とはいえ(すこし前の叙述の文脈に戻るが)、症状が人の心理構造に安定化を与えるものであり、とりのぞくべきものではない場合があるという知見を得るには、なにもフロイト・ラカン派である必要はまったくない。ここで、わが国の最も優れた精神科医の一人であるに相違ない中井久夫の論からも抜き出しておこう。

医者にとって症状とは先ず診断の目安である。だからいろんな次元のものが混じっている。もう一つ、本来は診断の目安としての症状と治療の目的としての症状とは違うものなのだろう。双方は一致することも多いだろう。しかし、いちおう区別しておこう。

治療の目安としての症状は、第一に、それのあるなしが、病気がどこまで回復したかを教えてくれるものである。第二に、それがどの程度必要かどうかを決めるのがよいだろう。症状は何でも目の敵にして消してしまわなければならないとは限らない。(……)

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。幻聴でも、消えた後に空虚感、索漠感が残ることがある。幻聴を聞いている間はなかった「また幻聴が起こるのではないか」という恐怖と不安が起こってくることもある。幻聴の悪性度を減らし、いっぽうでそれが生活に占める比重を減らすような生活にして、なくなってもさびしくないような心境になれば自然になくなることが少なくないように思う。(中井久夫「症状というもの」『アリアドネからの糸』所収)


…………


※附記:以下、文献として、「症状」に関係がありそうなものを、いままでの投稿から抜き出しておく。


症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」より転記(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.,Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002より).

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。

…purified symptom, that is, one stripped of its symbolic components – of what ex-sists outside the unconscious structured as a language: object a or the drive in its pure form. (Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975)
ドラに関して(……)。フロイトによるドラ分析の五十年後、Felix Deutschが出版した後書きによれば、もともとの症状――カタル、神経性の咳、失声症――は、原初の形態に戻ってしまった。明らかに、フロイトがドラになした限定された分析は、彼女の症候の象徴界的素材を取り除くのに充分だったが、主体と口唇欲動のあいだの関係には触れ得なかった。結果として、口唇欲動は、シニフィアンの鎖のなかに再挿入されたのである。(ヴェルハーゲ)

ーーここでのthe Symbolic象徴界とは、ポール・ヴェルハーゲ他の論において、象徴界/現実界が対比されており(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)、そこでは、そもそも精神分析は、象徴界の治療しかできず、現実界には触れえない、という論旨をもっている。ドラの例だけではなく、狼男の例でも原初的な欲動(狼男の場合、肛門欲動)は取り除きえず、狼男は、晩年(七十七歳)までその欲動に囚われていたとのこと(欲動は、快原則の彼岸にあり、現実界である)。

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の裁決は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の裁決は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような裁決をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて純化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)

ーーこのヴェルハーゲの論旨であるなら、冒頭に掲げたラカンの《分析は突きつめすぎるには及ばない》という発言を安易に受け取ってはならないということになるのだろう。すくなくとも象徴界の症状は徹底分析して、壺作りによって現実界の穴を探り当てなければならない、と。そしてそこで出合った現実界の「症状」は、分析され得ないということになる。

これもラカン派内部でさえ、異なった見解があるだろうことは言うを俟たない(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

あるいは、ミレール派(フロイトの大義派)のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)ならどうか(この論文は、2008年もしくは2009年に書かれているはずである)。

以下にある《S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行》とは、おそらく旧来の象徴界の症状の徹底操作(幻想の横断)から、直接に現実界との症状へとの移行を取る態度だと憶測される。

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽の破片、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化significatory identificationと繋がる。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽と折り合いをつける方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。
サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。(「ラカン派の二種類のサントーム・症状」より)

一読、上に引用したヴェルハーゲの見解と相反するようだが、しかしながら、そもそも現在の患者は、象徴界の症状ではなく、現実界の症状を抱えた者たちが多くなっているのではないか、とのヴェルハーゲの最近の指摘がある、《ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった》。とすれば、かつての《S1とS2の関係》ーー代表的なものは勿論、自由連想であるーーから、《S1と対象aの関係への移行》とは多かれ少なかれ必然的なのだろう。

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(「フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」」より)



2015年4月23日木曜日

「あんた私の祖国に土足で上がりこんでさんざん荒らした日本人なのね」

「あんた私の祖国に土足で上がりこんでさんざん荒らした日本人なのね」

ーーわれわれはそのとき生まれてなかったんだから、日本人って言われたって関係ないよ、と応じたくなるところだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(加藤周一「今日も残る戦争責任」『加藤周一 戦後を語る』所収)  

――で、貴君たち、まずは考えてみろよ、《戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続》しているかどうか?

加藤周一は『20世紀の自画像』(ちくま新書 2005)の「あとがき」に、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次のように書いている。

個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。

戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。

その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。

何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。

私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。

それ以外にも、貴君たちの嫌韓なるものは、次ぎのメカニズムが働いていないかどうか?

「《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

「あいつは俺に親切だったか」はここでは保留しよう、だが「俺はあいつにひどい仕打ちをした」に相違ない。日本の植民地支配のことである。われわれは負い目があるから謙虚になるのではない。負い目があるからこそ、あいつを憎むのだ(たとえば嫌韓・嫌中)。

犯罪者は、単に自己の予め受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。(……)共同体は犯罪者を除斥するーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」、「良心の疚しさ」・その他」木場深定訳 P81)

…………

ふだんなら、ここでジジェク=ラカンを続けるところだが、カボチャ頭にラカンでもないだろうからやめておくよ。

いやさわりだけ、引用しておくか。たとえば「在特会」に代表される連中の嫌韓における「在日」は、次の「ユダヤ人」の役割を担っていないかどうか、すこしでも疑ってみる才覚はあるのかい?

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)
ヒトラーのものとされる言明、「我々の内のユダヤ人を殺さなければならない」。A. B. Yehoshuaは妥当なコメントをしている。「このユダヤ人の破滅的な表現、嗅ぎつけることも制御することも出来ないまま、非ユダヤ人のアイデンティティに侵入するとらえどころのない実体としてのユダヤ人、この表現は、ユダヤ人のアイデンティティがひどく融通無碍である感情から発している。というのは、まさにその核が、変化してやまない電子軌道におけるヴァーチャルな電子に取り巻かれているある種の原子のように構造化されているからだ」。

この意味で、ユダヤ人は実際上、非ユダヤ人の対象aである。「非ユダヤ人のなかにあって非ユダヤ人以上のもの」、私の目の前で遭遇する月並みの主体ではなく、私の内のエイリアン、異人、ラカンがラメラと呼んだもの、無限の可塑性をもった侵入者、不死の「エイリアン」である怪物、それは決してある限定された形に突き止めるておくことのできないものである。

この意味で、ヒトラーの言明は、それが言いたい以上のことを言っている。それが意図された意味に反して、非ユダヤ人は、己れのアイデンティティを維持するために、「ユダヤ人」という反ユダヤ主義の形象が必要なことを裏づけている。ーーヒトラーが致命的につけ加えるのを忘れたことは、反ユダヤの彼、彼のアイデンティティもまたユダヤ人の内にある、ということだ。

ここには、ふたたびカントの超越論主義とヘーゲルの相違を位置づけることができる。この二人がとも見るのは、もちろん、ユダヤ人という反ユダヤ主義の形象は具体的なreifiedものではなく(ナイーヴに言うなら、それは「本当のユダヤ人」には合致しない)、イデオロギーの幻想(「投影」)であり、「私の目の中に」あるものである。ヘーゲルがつけ加えたことは、ユダヤ人を幻想する主体は、彼自身、「絵の中に」いるということだ。すなわち、まさに彼の存在自体が、「現実界の欠片」としてのユダヤ人の幻想に決定づけられているのだ。反ユダヤ主義のアイデンティティを取り除いたら、それを幻想している主体自身がばらばらになってしまう。肝腎なのは、客観的現実における「自己」の位置、「私が客観的にあること」の不可能な現実界における「自己」の位置ではない。そうではなく、私はいかに私自身の幻想の中に位置づけられているか、いかに私自身の幻想が、主体としての私の存在を支えているかである。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

…………

閑話休題。

ラカンによれば、症状概念を発明したのは、カール・マルクス以外の誰でもない。

人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。彼が最初に資本主義と何かの間に関連性を樹立したのだから。何か? 古き良き時代の、我々が呼ぶところの、封建時代さ(ラカン S.22)

資本主義時代になって、主人と奴隷の関係は「抑圧」されて、あたかも皆、自由で平等な主体であるかのようだが、抑圧されたものは回帰する。新自由主義時代の奴隷は、ツイッターで戯言囀ったり、RTしたりファボしたりしている「自由」な〈君たち〉だよ。

そして貴君たちのお気に入りの対象=主人は、次ぎのメカニズムが働いた存在だ。

ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)
己れを王と信じる狂人は、己れを王と信じる王より狂っているわけではない。(ラカン)

せいぜい王としての証人=識者を顕揚したらいいさ、自由だと思い込んでいる「奴隷」たちよ!

大衆化社会では)ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ーーオレかい? オレも奴隷から免れているわけないじゃないか。この文章ーー五分ほどで仕上げたーーが証明してるだろ

とはいえ、すくなくともオレは奴隷であるだろうことを常に疑う意志はあるさ、貴君たちと違ってね。

定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。(スピノザ『エチカ』第ニ部精神の本性および起源について)
スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。

彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』より)


ジャクリーヌ・デュ・プレと"man eater"





二人の若い男に見まもられて歯並びの悪い若い女が
ピアノを学んだものなら懐かしいKuhlauのソナタを弾いている
その過剰な情熱を抑えきれないさまは
米国の三文青春映画に出てくるあけっぴろげで下品な牝のようだ
という人がいるかもしれない
技術的にはけっして高くない指が
初心者練習用でもあるこのソナタを
これこそが音楽を歌うことだというようにして
躰全体で演奏している
音楽がはじまれば撮影のことなど一切忘れてしまう
カメラを向ければときに恥じるような表情をみせもするこの乙女は
ここでは一切の衒いを捨て
音楽の歓喜 あるいは官能の体現者かのようだ
《音楽の官能性とは単に聴覚的なものではなく、
筋肉的なものなのです》(ロラン・バルト)
傍らに密着するようにして佇む縮毛の美男は
彼女の強烈な情動の力に圧倒されてか
女の躰に触れる誘惑から逃れがたく
技術的指導の仮装を恥じながら
しぶきをあげる官能の渦巻に吸い込まれるようにして
乙女の掌に触れ左腕を持ちあげてみる
ああ女神の腋窩の股が開け放たれ
ほのかに汗ばんだ女神の体臭が匂い立つ
そうしてなんという歓びの白い歯の輝き!
画面の右隅に背をまるめてピアノの寄りかかって
時おり歎声の合いの手を洩らす大男
その横顔がわずかに窺えるだけだが
普段はいかめしいインド哲学者の風貌を
きっと陶然とさせていることだろう
この二人の親しい友は親密なまなざしを交し合い
そこに悦楽の女神も入り乱れ
三人の笑顔は波紋のように泡立つ





ーー彼女のピアノ演奏、このふたつのどちらも、フレーズの入り方がなんとすばらしいことだろう!

ジャクリーヌ・デュ・プレは、バレンボイムと21歳で結婚したのだが、この映像の時期にはおそらくすでに配偶関係にあったのだろう。28歳、1973年秋に多発性硬化症となり、引退を余儀なくされた彼女は、このときは後年のおそらく苦渋の生活の影はないはずであり、そこにある種の「はかなさ」をみてしまうのは、のちの不運から振り返った遡及的な印象にすぎないだろう。バレンボイムの歓びにあふれた表情はどうだろう、彼の二度目の相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、二人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、二人の子をもうけていたとのことだが、だからといって文句をいう筋合いはない。


…………

ーーとは、かなり以前に書いて(前々ブログ)消去してしまった文だが、サドとカントの関係をいくらか探っていたらジャクリーヌをめぐる記述に遭遇したために、再掲したものである。どんな文かといえば、《she was reported to be a serial "man eater."》なるものだ・ ・ ・

"man eater."とは「男を手玉にとって次々と捨てる女」と説明的に訳されることもあるようだが、男たらし、男喰い、男漁り等々の類でもあるだろう。

というわけで、--なにが「というわけ」か知らないがーー「KANT AND SADE: THE IDEAL COUPLE」(SLAVOJ ZIZEK.)から英文のまま貼り付ける(訳す気にはならない)。

The exemplary case of the "pathological," contingent element elevated to the status of an unconditional demand is, of course, an artist absolutely identified with his artistic mission, pursuing it freely without any guilt, as an inner constraint, unable to survive without it. The sad fate of Jacqueline du Pré confronts us with the feminine version of the split between the unconditional injunction and its obverse, the serial universality of indifferent empirical objects that must be sacrificed in the pursuit of one's Mission.8 (It is extremely interesting and productive to read du Pré's life story not as a "real story," but as a mythical narrative: what is so surprising about it is how closely it follows the preordained contours of a family myth, the same as with the story of Kaspar Hauser, in which individual accidents uncannily reproduce familiar features from ancient myths.) Du Pré's unconditional injunction, her drive, her absolute passion was her art (when she was 4 years old, upon seeing someone playing a cello, she already immediately claimed that this is what she wanted to be…). This elevation of her art to the unconditional relegated her love life to a series of encounters with men who were ultimately all substitutable, one as good as the other-she was reported to be a serial "man eater." She thus occupied the place usually reserved for the MALE artist-no wonder her long tragic illness (multiple sclerosis, from which she was painfully dying from 1973 to 1987) was perceived by her mother as an "answer of the real," as divine punishment not only for her promiscuous sexual life, but also for her "excessive" commitment to her art… 

だれか他にも似たようなことをいっていないかと、探ってみれば、(Per)versions of Love and Hate( Renata Salecl)にもある。とはいえ、Renata Saleclはジジェクの元妻(前々妻)であり、この二人が似たようなことを言っていてもなんら信憑性が高まるわけではない。




このジジェク夫婦、というか元夫婦は血迷っているんじゃないか? 
まったく同じようなことを二人して書いて! 
愛しいジャクリーヌを! 
これだからラカン派の解釈好きというのは許し難い!
自分の姉の旦那と寝るぐらい誰でもやるだろ!


バレンボイムも数ある男のうちの一人ということになるのか? 
彼は性戯は凡庸そうな印象を受けないではないが。
いやいや、妄念だ、シツレイ!

ーー何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ、ジャクリーヌ!

「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)

ところで、ほかにも次ぎのような記事に行き当たった。

I read recently a newspaper interview with Hilary's husband, Christopher (Kiffer) Finzi, in which he confides to all in the most vulgar street language that Jackie, in bed with multiple sclerosis, ''phoned up and asked me to come over'' for sex.(Romantic Ideal





2015年4月22日水曜日

無関心と無知と無自覚ーー自分たちとは関係ない別世界のお話

どうも不快で堪らない。日本での嫌韓・嫌中の猖獗、とくにその類の書籍が老舗の名高い書店の棚にまで山積みにされている様子を知ると。

不快感を抱くのは、この東南アジアの土地に長らく住んで、標準的な日本人よりは韓国人や中国人に接する機会が多いせいもあるかもしれない。つまりこの土地に移り住んでいる韓国人や台湾人と一緒にテニスをしたり、食事を一緒にしたりする。あるいは、キムチ、酒肴、海苔、昆布、煮干や韓国製の味噌・麺などを電話一本で配達してくれる、かつて在日朝鮮人だった食料品の初老の店主もいる。彼らはなにも言わないが、どうも彼らに接すると、いささか居心地が悪くなってしまう。日本でのあの現象がなくてさえ、かつて彼らの家に土足で上がりこんだ蛮族の末裔であるという後ろめたい心持をときに持たないでもなかった身だ。

わたくしが日本人の様子を垣間見るのは、ツイッター上でしかないが、その大半は、「元しばき隊」の連中を中心にした活発な反レイシズム言動を脇目なのか無視なのかは知らないが、我関せずの涼しい顔で、無駄話に終始している。反韓・反在日の書籍の破廉恥な流通は、白昼集団いじめとでもいうべきものだと思うが、彼らは「選択的非注意」の機制によるものなのか完全無関心な様子が苛立たしい。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)

無関心・無視というのは、中立の立場ではない。嫌韓嫌中イデオロギーの流通を支え、強化さえしている振舞いだ。

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

ツイッター文化というものがあるとするなら、あれらの現象にまったく無関心であると想定せざるを得ない大半の〈あなたたち〉は、あの場で日々、極右権力の道具としての役割を担っている。

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

とはいえ、わたくしもレイシストの一人であることをーー少なくともそうであったことをーー否定するつもりはない。

岩井) ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。日本のコマーシャルに典型的に出てくるあの白人崇拝というのが、逆方向のレイシズムでしょう。アジア蔑視、白人優越主義の裏返しですよね。もちろん、いろいろな肌の色の有名人も出ますけれど、それは有名人だからなだけです。つまり下士官根性の現われなわけですよね。上に媚びて、下に威張るというね。明治以来、日本は常にそうだったと思うんですね。そして、それと同時に、白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(柄谷行人 岩井克人対談集『終わりなき世界』)

要するに島国共同体の村人たちなのだ、我々は。

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

そして、日本のような閉ざされた島国ではない開かれた国々においてさえ、レイシズムが猖獗している現在だ。今年初めの仏『シャルリー・エブド』事件のおり、少し調べてみたことがあるが、ムスリムたちは、「郊外」という名のゲットーに隔離されているようなもので、仏の「自由・平等・博愛Liberté, Égalité, Fraternité」の理念とは大違いの実状であり、結局、あそこで支配しているのは、《自由、 平等,、所有そしてベンサム(Freiheit, Gleiheit,EigentumundBentham)》(マルクス『資本論』)のベンサム(功利主義)でしかない。

ラカンは早くも六〇年代に、今後数十年の間に新たなレイシズムが勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するだろうと予言した。…最近のナショナリズムの激発は、おそらくラカン自身もここまで予想外しなかったであろうと思われるほど、予感が的中したことを…証明している。…この突然の衝撃は、一体どこからその力を引き出しているのだろうか。ラカンはその力を、われらが資本主義文明の基盤そのものを構成している普遍性の追求の裏返しとして位置づけている。マルクス自身、すべての特殊な・「実体的な」・民族的な・遺伝的な結束の崩壊こそ、資本主義の決定的な特徴であるとしている。(ジジェク『斜めから見る』1991 p302)

資本主義、すなわちもっと具体的に言えば、世界資本主義であり、 「グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する」ということになる。絶え間なく増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムの時代なのだ。これは殆ど構造的な現象だといっていいのだろう。

悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち

たとえば、この先十年後二十年後にレイシズムがいまより衰えると想像できる人がいるだろうか。ますます盛んになるに決まっているのだ。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

なんの歯止めもなくなり資本の欲動のなすがままの今であり未来だろう。それがジジェクのいう「悲劇」である。資本の欲動? 「彼らはそれを知らないが、そうする"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 」(マルクス)のだ。

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になった瞬間である。」(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

…………

わたくしは1995年に日本から逃れたのだが、それ以降、日本は相対的にかなり貧しくなった。若い連中は、かつてのような余裕もなくなっているのだろう。

二年ほどまえ、若い「社会思想史」を研究しているらしい院生だと思われる若者のツイートに行き当たり、ひどく印象に残っている。

・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。

ここであわせて東浩紀氏のツイートも掲げておこう。

東浩紀@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ

@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。 

…………


他人の振舞いにひどく不快感を覚え、非難したくなるときに諌めの言葉としてフロイトとプルーストの次の文章をしばしば思い出す。要するに、ツイッター上にて、この「オレ」の昔の似姿に遭遇するからいっそう苛立たしいのだろう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)

2015年4月20日月曜日

フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって

さてこのところジジェクのサントーム概念の捉え方の変遷をいくらか探ってみたなかで、いくらか初期ジジェクの著作を覗いてみたので、ここではすこし細部に拘ってみることにする。

サントームとして捉えられた症状は、文字通り、われわれの唯一の実体、われわれの存在の唯一のポジティヴな支え、主体に一貫性を与える唯一のポイントである。

言い換えれば、症状は、われわれが"狂気を避ける"方法、われわれが、何も選択しない代わりに(ラディカルな精神病的自閉症、象徴的世界の崩壊)、何か(症状-形成物)を選択することである。その選択は、あるシニフィアンに、あるいは世界におけるわれわれの存在へ最低限の一貫性を保証してくれる象徴的形成物に、われわれの享楽を拘束することbindingを通してなされる。

もしこの根源的領域における症状が拘束から解放されてunboundしまったら、文字通り"世界の終わり"である、ーー唯一の代替物は無である、すなわち純粋な自閉症、精神病による自殺、死の欲動に身を委ねられ、象徴的世界の全き壊滅にさえ向かう。

これが、精神分析過程の終わりのラカンの最終的な定義が、症状との同一化 identification with the symptomである理由だ。患者が、彼の症状の現実界Realにおいて、彼の存在の唯一の支えを認めたとき、分析は終結する。これが、フロイトの"Wo Es war, soll Ich werden"を如何に読まなければならないか、ということでもある。すなわち、主体としてのあなたは、あなたの症状の既ににあった場所に同一化しなければならない。この"病理上の"特異性particularityにおいて、あなたの存在に一貫性を与えている要素を認めなければならない。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY 1989ー--邦訳はもちろんあるが、わたくしの手元には原文しかないので、私訳した)

ジジェクは、ここにある捉え方から、すなわち《主体としてのあなたは、あなたの症状のある場所に同一化しなければならない》からのいくらかの移行があるだろうことは、「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」にみて見た。

とはいえ、ジジェクこのこの文において既に、サントームの対象a、欲動の側面だけではなく、《世界におけるわれわれの存在へ最低限の一貫性を保証してくれる象徴的形成物》という側面を強調している。

ところで、二年後に上梓された『斜めから見る』にはこう書かれている。

サントームLe sinthomeは症状symptomではない。症状は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味-の-享楽jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。(ジジェク『斜めから見る』1991 鈴木晶訳だが、symptomの訳語が「症候」となっているのを「症状」とした)

この文だけ安易に読んでしまえば、サントームのある側面が、ラカンの後期「症状」概念と同じものだということが見えてこないかもしれない。だが、「サントームは症状ではない」とされているのは、サントームはラカンの前期症状概念ーーそれは通常、現在でも医学用語として使われている意味に近いのだろうがーーそれとは違うといっているのだ(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。


…………

さて、ここでは、冒頭の文章にある"Wo Es war, soll Ich werden"と、binding、unboundの二つに注目することにする。

◆まず、"Wo Es war, soll Ich werden"である。向井雅明氏の「Wo Es war, soll Ich werden」『imago(イマーゴ) 』 Vol.6-11,1995,pp.164-171.)には、次のような説明がある。

フロイトが『続精神分析入門』の中で精神分析の意図として表明した“Wo Es war, soll Ich werden.”は、フランスではマリー ・ ボナパルトによって “Le moi doit déloger le ça.” と訳された。 これを日本語に訳すと 「自我はエスを追い出さなければならない」 となる。 日本では、 このフロイトのことばは懸田克躬・ 高橋義孝によって 「かつてエスであったところを自我にしなければならない。 」 と訳されている。

フロイトも『終わりのある分析、終りのない分析』で述べているように、分析作業は去勢(-φ)の岩に遭遇して終了する。これはひとつの「Wo Es war……」である。無意識の真理、去勢(-φ)があったところに私はやってこなければならないのだから。

だが、これではまだ分析終了の半分だけを説明しているのにすぎない。あとの半分は…、患者はファンタスムのイマジネールな形態を整理し、そこにそれまで自らの症状の中で沈黙の内に満足されていた欲動の対象 (a) を自らの存在の核をなすものとして認め、 私は 「それ」 (je suis ça = エス)であると言うことである。 Wo Es war, soll Ich werden. まさしくこれは、エスがあったところに、私は到達しなければならない、である。

"Wo Es war, soll Ich werden"の訳、および解釈を伴なう訳は次ぎの通り。

①《かつてエスであったところを自我にしなければならない》(懸田克躬・ 高橋義孝訳)

②《エスがあったところに、私は到達しなければならない》(向井雅明)

③《主体としてのあなたは、あなたの症状の既ににあった場所に同一化しなければならない。you, the subject, must identify yourself with the place where your symptom already was》(ジジェク)

ーー②と③は、ほとんど同じことを言っているとしてよいだろう。


◆次ぎは、binding、unboundである(わたくしは、それぞれ「拘束すること」、「拘束から解放されて」、と訳した)。

ジジェクが、それを意図して使っているのかどうかは分からないが、boundという語彙は、フロイトの『快感原則の彼岸』に表れる。まず英訳を示そう。

This picture can be brought into relation with Breuer's distinction between quiescent (or bound) and mobile cathectic energy in the elements of the psychical systems; the elements of the system Cs. would carry no bound energy but only energy capable of free discharge.

一方は、boundエネルギーであり、もうひとつはmobile cathectic エネルギーである。

この文章は、岩波新訳ではどう訳されているかは知らない身であるが、人文書院の旧訳ではかくの如し。

……このような想定と、ブロイアーが、心理的体系の諸要素について、静止せる(拘束された)供給エネルギーBesetzungsenerと自由に活動しうる供給エネルギーとを区別した見解とをむすびつけて考えることができる。Bw体系の諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていないだろう。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p165

この訳文は、「フロイト翻訳正誤表」氏によって次のような訳文変更の提案がある、《心的システムの諸要素のなかに、静止せる(拘束された)備給エネルギーと自由に活動しうる備給エネルギー》。

いずれにせよ、ブロイアー起源の用語であることがわかる。独語とは殆ど縁のない身であるが、この際、独原文も貼り付けておこう。
Man kann mit dieser Vorstellung die Breuer-sche Unterscheidung von ruhender (gebundener) und frei beweglicher Besetzungsenergie in den Elementen der psychischen Systeme zusammenbringen; die Elemente des Systems Bw würden dann keine gebundene und nur frei abfuhrfähige Energie führen.

ーーこれで見ると、人文書院の訳文は、Besetzungsenerという原語が置かれる位置がずれているようにみえるが、独語に疎い者として深くは追求しまい。

さて、何がいいたいのかと言えば、この「拘束されたエネルギー」は、フロイトだけでなくラカンの欲動論におけるひとつのキーワードであるということだ。

ここでヴェルハーゲの論から抜き出すならば、こうある。

フロイト理論において、快感原則は、"シニフィアン内部"で機能する、すなわち表象Vorstellungenとともに、ということである。そこでの"拘束されたbound"エネルギーは、いわゆる二次的な過程内部に結びつけられる。快感原則の彼岸に横たわるものは、表象によって表現され得ず、一次的な過程内部での"自由なfree"エネルギーとともに作動する。後者は自我にトラウマ的な影響を与える。ラカンの現実界とは、フロイトの、原抑圧された無意識の臍であり、固着のせいで居残ったstays behindものである。"居残るstays behind"が意味するのは、「シニフィアンに、言語に転換されない」ということである(Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96)。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive)

象徴界での二次的なエネルギーが、「拘束されたboundエネルギー」であり、他方、現実界の一次的なエネルギーが、「拘束から解放されたunboundエネルギー」なのである。

フロイトは、その経歴の最後に、自由連想の技法は「終りがない」1937ことを認めた。象徴界における「徹底操作」1914では不十分なのだ。というのは、徹底操作(ラカンの「幻想の横断」)だけではでは、構造的に、欲動の真の核には繋がりえないからだ。すでに、フロイトは、この1914年の論文にて、「反復強迫Wiederholungszwang」を発見しているが、それはなにも偶然の一致ではないと言える。とはいえ、反復強迫とは、普通の反復とは異なるものだが、その時点ではフロイトは十分な区別が出来ていなかったように見える。

反復強迫とは、象徴化できないものを象徴化する絶え間ない試みである。すなわち、ラカン用語でいうなら、「書かれぬことをやめぬもの“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”」であり、シニフィアンの連鎖automaton(自由連想)が、象徴界におけるネガティヴな生産物としての穴、tuchè(反復強迫としての現実界)を決定づけているのにフロイトはある時期から気づいていた。

これが、欲動の強迫を「拘束しbind」、二次的な過程(象徴界)に繋げようとする、構造的に「不可能な」試みということである。驚くべきなのは、フロイトはすでに1890年代にトラウマを研究するなかで(たとえば『ヒステリー研究』1895)、この「言語に転換されない」異物 Fremdkörper(あるいは異物としての身体)に頻りに言い及んでおり(「異物」はブロイアー概念)、そこですでに快感原則の彼岸の核を見出しているとさえいえることだ。

いずれにせよ、この「書かれぬことをやめぬもの」が「欲動」の姿である。そして、欲動は潜在的には死の欲動である、《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

フロイトの文における《Bw体系の諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていない》という表現は、いかにもあっさりしているが、この《拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギー》が、「死の欲動」を言い表わそうとする起源の少なくともその一つである。

最後に、ジジェクがフロイトの『集団心理学と自我の分析』をめぐって語る中での、”the unbinding of a social link”という表現を抜き出しておこう。

……for Freud, the “regressive” primary crowd, exemplarily operative in the destructive violence of a mob, is the zero‐level of the unbinding of a social link, the social “death drive” at its purest.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
……フロイトにとっては、“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的な絆の拘束を解き離すゼロ度、最も純粋な社会的“死の欲動”である。(私訳)