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2015年3月16日月曜日

「笑いについて」(中井久夫)

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった(……)

母のほうは、食糧難になると生き生きしてきて、前の溝に稲を植え、裏の畑にトウモロコシを植えるという具合で、一家の食糧問題を負い、嫁姑の地位が逆転してしまった。その妹の叔母にいわせると、娘時代は農事は一切しなかった、信じられぬという。祖父は遺言の中で、父に母を大事にせよとの一行を入れた。母は医師になりたかった祖父のファンだったから、私が医学部に代わった時にはいちばん喜んだ。晩年は、柴犬の「マル」をかわいがり、よく百科事典を読んでいた。

私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった。うっかり、四月から出る予定といっただめであろう、その一〇日前、「一〇日後、食べる」と言って、食も水も断った。一〇日目、棺の前に箸一本をさしたご飯が供えられた。私にこれ以上の迷惑をかけたくないという母の意志を秘めた最後のユーモアであった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

この文章にある「母の意志を秘めた最後のユーモア」の「ユーモア」という言葉に引っかかっていた。どうしてこの母の振舞いをユーモアと言いうるのか、と。なにか言い尽くせない思いが籠もっているのではないか。

……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990)

《いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り》とあり、この末期の一カ月の間に、息子の看病を受けて生涯の最高の幸せを感じた後の、「もういいわ」だったということかもしれないと今は思う、《私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった》。


以下、中井久夫の「笑いの機構と心身への効果」(『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)からだが、わたくしはこの書が手元になく、ツイッターにて拾ったものである。仮に行分けをしたが、実際の行替えは不明であり、わたくしが勝手に行を分けた。

この文には、《英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということ》とある。


笑いが人間特有であることは、千数百年前にギリシァの哲学者アリストテレスが指摘していたと思う。以来、笑いは医学よりも哲学、心理学で論じられてきた。

笑いの「原因」あるいは「機構」についてはいろいろな説があるが、唱える人の人生観を反映して笑いの別々の面を強調している感がある。笑いに共通なことは、曲げてあった竹を解放した時のはね返りのような急激な心身緊張の低下である。横紋筋緊張の低下は顕著で自覚されることが多い。極端な場合はナルコレプシーで、笑いとともに一瞬にして姿勢崩壊となる。平滑筋の緊張も低下する。

乳幼児の微笑は、母親のはぐくみ行動を誘発する外的刺激によらない内発微笑であり、母子のほほえみ合いは子どもの成長にも、母となった女性の成熟にも、不可欠な因子である。

優越、勝利の際の高笑いは目的達成による心理的緊張の低下と同時に起こるが、急激な成功による心理的危機を防ぐ精神保護作用の一部かもしれない。実際、成功は失敗にも増して精神健康悪化の契機になる。

絶望の際にも激しい笑いが発生する。やけくそ笑いといわれる。この場合も筋緊張の急激な低下が特徴である(笑いを伴わない筋肉緊張低下もある。ガックリと肩を落とすという事態である)。同じく、不意打ちの事態にも笑いが起こる。これらは限度以上の筋緊張を防ぐ機構かも知れないし、次に起こすであろう反撃に備えていったん筋肉の緊張を下げておいて有効な打撃力を発生させる機構かも知れない。

人の失敗、失策を見る際の笑いは、予想に反する相手の矮小さの認知によって、それまでの緊張した構えが解け過程の一部であろう。この場合の笑いは、余裕感を伴う。この笑いの味は人間に好まれ、お金を払って落語や漫才を聴くのは、この種の笑いを求めてである。

英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということである。

その他、対人関係の道具と化した笑いが数多くある。初対面や久しぶりの面会の際の笑いは、互いに筋緊張などしていなくて攻撃の意思がないこと、「われわれは友人だ」ということを伝達する道具である。政治家が政敵と肩を組み合って笑うのには、さらに余裕の誇示も加わる。

はっきりと攻撃の道具である「あざ笑い」は.「おまえは矮小である」と決めつけることで、反撃を誘発するか、相手が無力を自覚して深く傷つくかである。ジョークをいい合ってよい関係(ジョーキング・パートナー)を制度化しているブッシュマン社会は、一人に「イジメ」が集中する社会より上等である。(中井久夫「笑いの機構と心身への効果」『「伝える」ことと「伝わる」こと』)

中井久夫botにおける引用はここまでだが、別にインターネット上を探ると、次のような文が、--おそらく続いてーーあるようだ。

・「笑いは相手の攻撃を防ぐ道具にもなる。日本人が西洋人と話す際の有名なニヤニヤ笑いは防衛の笑いで、この煙幕は相手を苛立たせる。笑いは、こうしてコミュニケーション遮断の道具にもなる。」

・「笑いも道具化されるにつれて、心身の緊張解放がなくなり、笑っても楽しさがなくなる。」

・「・・・防衛的な笑いを長く続けているとかえってストレスが蓄積する。」

もっとも笑いの煙幕的側面は、なにも日本人の「ニヤニヤ笑い」だけではない。

何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。(……)一方、真の書物は、白昼と雑談との子ではなくて、晦冥と沈黙との子でなくてはならない。そして、芸術は人生を正確に再構成するものであるから、人が自分自身の内部に到達してとらえた真実のまわりには、つねに、詩の雰囲気が、ひそやかな神秘が、ただようだろう。それこそは、われわれが通ってこなくてはならなかった薄明のなごりにほかならず、深度計ではかったように正確に記録された標示、ある作品の深さの標示にほかならぬであろう。(プルースト「見いだされた時」井上究一郎訳)

…………

中井久夫のユーモアをめぐる文は、わたくしが気づいた範囲でも、他に英国人のユーモア感覚を語ったエッセイが二つ(「人間であることの条件 英国の場合」、「待つ文化、待たせる文化」)ある。

また、次ぎの文の「余裕」は、「ユーモア」を代入してもよいのかもしれない。

私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている。(中井久夫「家庭の臨床」『「つながり」の精神病理』所収)

あるいは《自らの姿に対する突き放した観察からくるユーモア》(『分裂病と人類』)ともある。これは、まさにボードレールのユーモアの定義、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》だろう。あるいは、フロイトの定義としてもよい。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)

ひとはつねにユーモアをもてるものではない。

ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)

恋する人にユーモアが欠如しているとして、では愛する人はどうなのだろう。「末期の一カ月」の中井久夫が母から与えられたとされるユーモア感覚は、当然、相互の強い愛情のなかでのことだろう。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』ーー「成島柳北の「超越論的」態度」より)


…………

※附記

冒頭に掲げた文に、《母のほうは、食糧難になると生き生きしてきて、前の溝に稲を植え、裏の畑にトウモロコシを植えるという具合で、一家の食糧問題を負い、嫁姑の地位が逆転してしまった。》とある。直接には関係がないかもしれないが、これも強く印象に残っている文を並べておく。

私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。中井久夫「私の死生観」