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2015年3月13日金曜日

成島柳北の「超越論的」態度

数日前、「「ヘチマオヤヂ」とその愉快な仲間たち」ーーすなわち成島柳北とその愉快な仲間たちーーとの表題の文を掲げたが、それに引き続く。

…………

昭和三年二月十二日。……終日柳北先生の『獄中詩稾』および『禁獄絵入新聞』二葉を謄写す。獄中無聊のあまり囚人の用る浅草紙に都都一狂歌戯文などを書し獄丁の目をぬすみて回覧せしものなり。当時の文士は鉄窓の下にありても余裕綽々たることかくの如し。画工暁斎も獄に投ぜられるを機となし獄裏の光景を写生したりき。これを野依らの如き今日の操觚者に比すれば人物霄壌の別察するに余りあり。

荷風の『断腸亭日乗』には、成島柳北の名が頻出する。以前はあまり気にとめずに、どんな人物かを殆んど知らぬままであったのだが、ここ数日すこし調べてみてはじめて気づいたことは、青空文庫でも柳北の作品を八作品ーーどれも短いものだがーー読むことができるということだ。それが思いの外おもしろい。

ここでは、上に掲げた荷風の文、《獄中無聊のあまり囚人の用る浅草紙に都都一狂歌戯文などを書し獄丁の目をぬすみて回覧せしものなり。当時の文士は鉄窓の下にありても余裕綽々たることかくの如し》の柳北面目躍如とでもいうべき「祭舌文」にのみ触れる。

「祭舌文」とは、舌禍事件による四ヶ月の囚人生活の一周年を祭る文章なのだが、そこには、《加之獄則ノ厳ナル吾ガ心惴々トシテ遵奉ノ暇有ラザル也。獄吏来レバ叩頭シ獄卒来レバ頓首ス。猶土百姓ノ戸長先生ニ出遭フタルガ如シ。然ルニ汝ハ動モスレバ平生ノ悪癖ヲ発シ来リ、時々得意ノ詩文ヲ吟誦シ、或ハ隣房ノ人ニ私語セリ》などとあり、この吾から汝(吾の舌)への語り掛けは、自己対象化の力としてのユーモアが溢れ、ーーボードレール曰く、ユーモアとは《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》ーー現代日本のわれわれの多くに欠けているのはこの力ではないか、と思いを馳せさせもする。そもそも「諷刺」とは本来このユーモアの力をもつものだろう。

良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」

さてここで、二人の偉大な思想家の「ユーモア」の定義ーー両者は「超自我」の扱い方が異なるのだが、それはこの際やりすごしてーーそれを掲げておこう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

ユーモアとは、超自我に対する自我の勝利なのだ。「わかるだろう、きみはどうあがいてみてもすでに死んでいる。きみは劇画の状態としてしか存在しない。そしてぼくに鞭をふるう女性がきみのかわりをするなら、ぼくの内部で撲たれているのみまたきみなのだ。……きみ自身がみずからを否定するのだから、ぼくはきみは否認するのだ」。(……)

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。」。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 pp.153-154)

結局、ユーモアとは、「強い視差 parallax」をもつ、あるいは「超越論的」態度のことであり(参照:超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)、柄谷行人風に言えば、トランスクリティークである。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー「「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」」より)


以下、このユーモア、あるいは超越論的態度の見事な実践、「祭舌文」全文である。

明治十年二月十三日、上子斎戒沐浴シ、恭シク一壜ノ葡萄酒ト一臠ノ牛肉トヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。其文ニ曰ク、嗚呼吾ガ心ハ謹慎ニシテ吾ガ胆ハ縮小ナリ。生来未ダ嘗テ狂暴悖戻ノ事ヲ為サズ。然ルニ汝三寸ノ贅物妄リニ喋々トシテ遂ニ意外ノ禍害ヲ招キ、吾ヲシテ飛ンダ迷惑ヲ為サシメタル。思ヒ出ダセバ去年今月今日ニシテ、即チ一周年ノ忌辰ニ当レリ。其日ノ景况ハ如何ナリシト思フゾヤ。天色惨澹トシテ朔風雪ヲ捲キ、早朝墨水ノ家ヨリ本社ニ至ルノ間、既ニ五臓モ凍断セントシタリ。既ニシテ後事ヲ託シ社員ニ別レヲ告ゲ、本社ノ編輯長末廣氏ト同車シテ、町用先生ニ随従シ法廷ニ出レバ、風愈ヨ烈シク雪愈ヨ劇シ。竟ニ汝ガ罪戻ニ坐シテ辱ナクモ四箇月ノ禁獄ト一百円ノ罰金ヲ頂戴シタルハ、実ニ本日ノ十一時二十分比ニテ有リキ。汝平生巧ミニ弁シ細カニ論ズルモ、是ノ時ニ当テハ最早一言ノ以テ吾ヲ救フベキ権力無ク、黙々トシテ吾ガ獄卒ノ為ニ叱咤セラルヽヲ傍観シタルノミ。風雪ノ漫々タル中ニ徒跣シテ獄門ニ到ルノ際、吾ガ肌膚ハ身ニ粟シ吾ガ手足ハ尽ク亀ス。衣ヲ解キ褌ヲ脱シテ獄吏ノ検査ヲ受ク。厳寒ノ身ニ逼ルヤ吾ガ歯牙尽ク戦フテ汝独リ晏如タリ。亦何ゾ不人情ナルヤ。其ノ幽室ニ鎖サルヽニ及ンデハ、鉄檻木凛乎トシテ一星ノ火無ク、々タル雪片ノ来ツテ窓ヲ撲ツノ声ヲ聴クノミ。坐ニ一帙ノ書無ク身ニ伴フモノハ唯糞桶唾壺ノ二物ノミ。豈ニ馬鹿々々シカラズヤ。然ルニ汝ハ毫モ吾ガ心ノ憂悶ナルニ関セズ。飯来レバ之ヲ食ヒ茶来レバ之ヲ飲ミ、欣々然タル挙動平日ニ異ナルコト無カリシ。亦何ゾ不人情ナルヤ。加之獄則ノ厳ナル吾ガ心惴々トシテ遵奉ノ暇有ラザル也。獄吏来レバ叩頭シ獄卒来レバ頓首ス。猶土百姓ノ戸長先生ニ出遭フタルガ如シ。然ルニ汝ハ動モスレバ平生ノ悪癖ヲ発シ来リ、時々得意ノ詩文ヲ吟誦シ、或ハ隣房ノ人ニ私語セリ。是レガ為メニ恐ロシキ呵責ヲ蒙リ、殆ド吾ガ肝ヲ潰シ吾ガ腸ヲ裂カシメントシタリ。亦何ゾ不人情ナルヤ。幸ニ天公ノ吾レヲ愛憐スルト、吾ガ精神ノ外物ニ屈撓セザルトヲ以テ、纔カニ獄中ノ鬼トナルヲ免レ、再ビ娑婆世界ニ出デヽ縦放不羈ノ身ト為ルヲ得タリ。豈危カリシニ非ズヤ。抑モ汝ハ六国ノ相印ヲ佩ブルノ能モ無ク、又七十余城ヲ下ダスノ力モ無ク、常山賊ヲ罵ルノ烈ヲ学ブ能ハズシテ、反ツテ生客ニ死スルノ拙ヲ免レザラントス。亦哀シム可キノミ。然リト雖ドモ吾ガ平生ノ生計亦汝ニ頼テ立テリ。豈一時ノ惨禍ヲ受ケシガ為メニ汝ト絶ツノ心有ランヤ。吉凶栄辱将ニ汝ト永ク相終始セントス。今ヤ一周年ノ忌辰ニ値ヒ、思旧感今ノ情ニ堪ル能ハズ、聊カ懇々ノ襟懐ヲ陳ズ。汝其レ言ハント欲スル所ロ有ル耶。汝将タ食ラハント欲スルモノ有ル耶。汝其レ遠慮スルコト莫レ。嗚呼可笑イ哉尚饗

…………

柳北は1872年(明治5年)、欧州視察しているのだが、《欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった》(ウィキペディア)そうだ。

新政府組閣の際(……)、木戸が岩倉(議定)の使いとして、向島の成島邸に赴き「この際ぜひ文部卿を……」と懇請しているが、柳北はキッパリこれを断わっている。彼としては「旧幕臣として仕えたじぶんだ、なにも今更いなか侍どもと……」といった気持があったであろう。いわば周の粟は食まずの心境か、薩長土肥のむかしの傍若無人ぶりが柳北には目障りだったものとみえる。(田坂長次郎「成島柳北と英学」)

柳北の経歴については、インターネット上で比較的まとまって書かれた紹介文は、わたくしが気づいた範囲では、壺齋閑話氏の「成島柳北」がある。荷風の「柳北仙史の柳橋新誌につきて」からの引用もある。また成島柳北の文章に則って記述されたものとしては、《ふつーのサラリーマンが片手間に調べた》と謙遜されているが、驚くべき詳細に亘る「成島柳北」がある。

ここでは後者から青空文庫では読むことができない成島柳北の名高い「ごく内ばなし」ーー柳北が入獄中のことを述べた文章で、明治九年六月一四~二四日にかけて朝野新聞上に掲載――の一部を抜粋しよう。《偶々洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青 楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ》という文に遭遇してことさら愉快になることができる。

食色ハ人ノ大欲ニシテ、聖賢デモ口ノ通リニハ参リ申サズ。凡夫ハ言フ迄モ無シ。 縦令僕輩ノ如キ謹慎恭順ナル禁獄人ト雖ドモ、此ノ二欲ヲ断ツハ甚ダ難シトス。サレド獄内ニ在テハ意ヲ一身ノ安危存亡ニ注ス。 何ノ暇カ能ク心ヲ男女ノ欲ニ動カサン。 偶々洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青 楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ。 是レ其欲点ノ至ルトコロ極低ノ度ニ在ルヲ以テナリ。食ニ至テハ然ラズ。 獄裏ノ快楽、唯読書ト喫飯ニ在リ。(読書ハ多キヲ厭ハズ。食ハ極メテ節ス可シ。 多ケレバ必ズ大害アリ)。 官ヨリ給スル三度ノ食モ着袴時代ヨリ漸々上進シ、方今ハ下等私塾ノ食ト級ヲ同ウ ス。 且、親戚知己ノ贈遺【サシイレ】物アリ 。 〔贈遺ハ牛肉鶏卵ヲ佳トス。


さて、ここではもう少しーー上のふたつのサイトからではなくーー、別の論文(ウェブ上PDF)から引用する。

成島柳北先生は江戸の人である。通稱は甲子太郎,後に惟弘と改めた。諱は弘,字は保民,柳北はその號である。祖父司直は,大學頭林述齋に學び,幕府奥儒者將軍侍講に任ぜられ,命を受けて 『德川實記』を編纂した。先考筑山も亦幕府奥儒者と爲り『後鑑』を編むでゐる。先生は幼より祖父及び先考の膝下に薫陶を受け,弱冠にして家學を繼ぎ,翌年布衣に列し奥儒者に任ぜられた。將軍家定・家茂二代に經學を講じ,父祖の業を承けて『德川實記』・『後鑑』等の訂正補修に從た。また狹斜に親むこと深く『柳橋新誌』 (初篇)を著し,江都の紙價をして高からしめた。幕府の衰へるに及び慨然として報國の念已み難く,「佛蘭西騎兵傳習」を建議し,騎兵頭竝に擧られ,陞せられて騎兵頭となつた。後に移て外國奉行となり, 會計副総裁に轉じて, 幕府挽回の策に盡瘁した。

しかしながら,大廈の將さに顚へらんとするや,一木の能く支ふる所に非らず。遂に丁卯戊辰の瓦解に逢た。後にその才を以て新政府に聘せられたが,貳臣となるを屑しとせず,しばらく東本願寺現如上人に從ひ西遊した。歸國の後『朝野新聞』に聘せられて,社長兼主筆と爲た。是において,先生時論を以て斬人斬馬の筆を揮ひ,藩閥政府をしてその心胆を寒からしめたのであるが,政府はこれを惡み先生を獄に下すこと一度び,その新聞紙の發兌を禁じ,罰金の刑に處することに至ては幾度なるか算するべからざるものがあつた。先生もと質蒲柳,病に冒され,明治拾七年拾一月三拾日を以て易簀した。年を享くること四拾有八。(成島柳北「先生國」注解 成島柳北「柳北奇文 巻上」『明治文学全集 4(成島柳北 服部撫松 栗本鋤雲集)』(筑摩書房))
明治維新以後、旧幕臣に与えられた道は、徳川氏に従って駿河に移住するか、士籍を脱して農工商となるか、帰順して「朝臣」となるか、脱走して反政府軍に参加するかのいずれかであったが、一部の成功者と除けば、それぞれ時代の荒波に揉まれ、社会の底辺に埋没する方向にあった。

成島柳北は、旧幕府では外国奉行・会計副総裁などを歴任したにもかからわず、維新以後には下野して菅途に就かず、民間に生きることを決心した。(乾照夫「成島柳北と『東京珍聞』」)


かつまた、『硯北日録』の万延元年一日には次のような文があるそうだ(高橋昭男「将軍侍講成島柳北の公と私」より)。

正月大
朔 丙寅。曇乍晴。五更起、梳浴。讀大學經一章。登 殿。拜賀如本城舊儀。午下拜聴 上讀大学三綱領于便殿後堂。(原文句読点なし)

一日 丙寅。曇り、乍ち晴れ。五更に起き、梳り浴す。大学経一章を読む。殿に登り、拝賀するに本城に如くこと旧儀なり。午下、上の便殿後堂に大学三綱領を読むを拝聴す。

(将軍侍講の勤めは、元日の登城から始まる。午前五時ころには起床し、頭髪を整え、入浴して身体を清め、『大学』の一章を読む。午前中、城内では旧例により元日の将軍への拝賀の儀がある。午後、休息の間にて将軍自ら大学三綱領をお読みになるのを拝聴する)。

「将軍侍講」とは「奥儒者」のことであり、《一般に天皇・皇太子・親王,君主などに学問を進講した学者。侍読(じどく)とも。江戸時代,林羅山は徳川家康に近侍し,秀忠に講書し,家光の侍講を命じられ,家康~家綱の4代将軍下問に応じて諸法度・外交・典礼などに関与した。》(侍講【じこう】)とのこと。

とはいえ、成島柳北一人が将軍の教育係をやっていたわけではなく、《将軍侍講の職には、もうひとり小林栄太郎がおり、『日録』によれば、交代で講義を行なっていた》(同「将軍侍講成島柳北の公と私」)

ところで、上の柳北文に、『硯北日録』万延元年元日には、《将軍自ら大学三綱領をお読みになるのを拝聴する》とあったが、万延元年(1860年)時の将軍とは、徳川家茂である。

安政5年(1858年)

10月死去した将軍家定の後を受け、僅か13歳の徳川慶福(家茂)が将軍に就任する。(幕末伝習隊関係年表

すなわち万延元年(1860)の元日には、十四代征夷大将軍である十五歳の少年の朗読を拝聴したということになる。


以下に、明治維新直後(1868年秋31歳)に書かれた成島柳北の半自叙伝『濹上隠士伝』を掲げるが、そこには、《十八の春 温恭大君の侍講見習となり、幕朝実録編輯の事を督せり。二十歳の冬侍講となり、昭徳公に読書を授け奉る》とあり、この「昭徳公」が十四代将軍・徳川家茂の諡号のことのようだ。もっとも柳北二十歳時(1856年(安政三年)ーー柳北は1837年生-1884年没である)は、家茂はいまだ将軍ではなく、当時は家定(1824年生―1858年没)が将軍であった。かつまた家茂(1846年生―1866年没)は、若死(21歳)だが、柳北はその短い最期まで家茂に仕えたわけではないようだ。

慶応2年(1866年) 1月薩長同盟成立。 6月幕府による第二次長州征伐始まるが、幕府は長州藩に対して、連戦連敗。 4月フランス政府、幕府の軍事顧問団招聘を決定。ブリュネ中尉、参加することとなる。 7月将軍家茂、大阪城で死去。 8月勝海舟は幕府代表として、厳島で長州藩広沢兵助らと合議制実現を条件に停戦交渉を行うも、一橋慶喜は約束を反古にして朝廷をして将軍家茂の死去による一時休戦という勅命を出さしめ停戦を計る。 一橋慶喜は前将軍家茂の後を継いで、徳川家を継承する。但し、将軍職は固辞する。 12月徳川慶喜は孝明天皇の求めにより、15代将軍となる。しかしながら、同月孝明天皇は急死することとなる。(幕末伝習隊関係年表

高橋昭男氏の「将軍侍講 成島柳北の公と私」によれば、柳北は文久三年(1863)まで将軍侍講の職にあったとあり、家茂18歳前後までの侍講ということになる。なぜ侍講の職を退くことになったのかは、下の半自叙伝には、《一朝擯斥をうけて、散班に入りぬ。そは風流の罪過によると、或は云ふ狷直に過て衆謗を得ると、或は洋学を主張するの故なりと云ふ》とある。


あるいは次ぎのような文章を拾うこともできる。

《文久3(1863),柳北に筆禍事件が起る。彼の時事を風刺 した漢詩が偶々老中の間で 問題となった 。 その段階ですめばよかったが,将軍家茂の耳に入り,その忌諱にふれて,彼は3年間閉門蟄居を命ぜられる。》(田坂長次郎「成島柳北と英学」)


濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。冠して温字叔厲と称せしかど、諱むべき事ありて、今の名に改めたり。

其別号は甚だ多し。確堂は、艮齋翁の与へしなれど、三河の老公にふれし故に廃せり。柳北は柳原の北にすむより称せしなり。誰園は、其園の名、春声楼は、其書楼、不可拔齋は、その書室、我楽多堂は、去年造りし一宇の称なり。濹上の荘は、松菊荘とて記文あり。

隠士は、東岳先生の孫にして、稼堂君の子なり。幼より書を読み、和歌を詠す。詩賦は最好む所なり。十七の冬父にわかる。十八の春 温恭大君の侍講見習となり、幕朝実録編輯の事を督せり。二十歳の冬侍講となり、昭徳公に読書を授け奉る。廿一の冬布衣を命せらる。昔の六位にあたるなるべし。後鑑三百七十五巻訂正の労を賞せられて、黄金御衣を賜ひ、実録編輯の勲に因て、俸を新に増し給へり。

十年文字を以て、内廷に奉仕し、君恩の優渥なるに感涙せしが、一朝擯斥をうけて、散班に入りぬ。そは風流の罪過によると、或は云ふ狷直に過て衆謗を得ると、或は洋学を主張するの故なりと云ふ。何れにてもよしとして、三年籠居、西学者に就て、専ら英書を攻む。大に開悟せしことあり。

二十九の秋、突然歩兵頭並に擢でられ、家になかりし千石の禄を賜ふ。其冬騎兵頭並に転じ、仏蘭西騎兵伝習の事を建言し、其命をうけて、翌年より横浜に陣営を造り、大に操練の事を督せり。営築の事、三兵の管轄、みな隠士の手にあり。仏国の教師謝農安は至て親しかりし。三十一の夏に、騎兵頭に登り、二千石に加俸す、その秋、騎兵奉行の事をつとむべきよし命あり。隠士筆硯に成立したけれども、時運に深意ありて、陸軍一局に非常の精神を費せしかど、竟に其志の如くならざるを憤り、病に臥して職を辞しぬ。

家に臥す僅三十日にて、慶応戊辰の早春に、外国奉行に栄転し従五位下大隅守に叙任す。其月の末に会計の副総裁に進み、参政の班に加はれり。此時は大阪敗走の後なり。隠士会計局の空乏なる折に逢ひ、奮てなせし事もあるべし。其詳はしらず。大君の東台に蟄し給ふ後、隠士三千円の俸金と総裁の職を返し奉りて隠る。時に年三十二。其家は義子信包に譲て、市籍に入るとの風説なり。是より後のなりゆきは、乞丐となるか、王侯となる歟、草野に餓死するか、極楽浄土に生るヽかもはかり難し。

大痴公曰、隠士生れて、人に短なる所少なからず、色を好むこと甚し、酒を嗜むこと亦甚し。百般の遊戯好まざる所なく、好て人を罵り、世に悖る。何事をなしても、無益の勉強をなさず、やヽもすれば、懶漫を楽んて、撿束せず、これ其短処なり。然れどもまた長処あり。人と争ふ事を好まずして、人に欺むかれず、己に私すると雖も、人の害となることをなさず、遊蕩に耽るといへども、常に家国の安危を心にとヾめり。これ長ずる所ともいふべき歟。

隠士妙齢より今日に至るまで、遊戯連年、いまだ其倦たるけしきを見す。右の所謂情痴者なる者歟。隠士風雲花月の妙処に逢ふ時は、涎を流し、魂を飛し、酒を把て、陶々として楽む。時に詩歌を草す。所謂風流客なる歟。隠士盛宴に臨み、紅裙前に満るに当て、時として感激扼腕、嬌娜の色も眼に上らず、痛憤按剣の志あり。所謂忼慨悲壮なる者歟。隠士頃者一書を読まず、空々として日を渉る。所謂馬鹿者なる歟。

蓋隠士の言に曰、われ歴世鴻恩をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶の極、真に天地間無用の人となれり。故に世間有用の事を為すを好まずと。それ或は然らむ、それ或は然らむ。

明治元年秋の末 東京 野史氏しるす

…………

※附記:柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』より

フロイトは、ヒューモアの例として、月曜日絞首台に引かれていく囚人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言った例を挙げている(……)。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。フロイトは、先の囚人にとって、こういう態度は快感の源泉であるらしいが、それが関係のない聞き手にも快感を与えるのはなぜなのか、という問いからはじめている。しかし、私はヒューモアを心理学的に説明することに関心がない。実際フロイトも、ヒューモアに、心理学的解明をこえて、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。というより、フロイトの姿勢そのものがヒューモアなのである。『文化への不満』によれば、人類の未来には解決がありえない、解決を説くいかなる言説もデマゴギーだ。フロイトの結論は絶望的なものである。だが、それを読む者に(少なくとも私には)解放感を与えるのはなぜなのか。

ボードレールはすでにこの問いに答えようとしたといってもよい。彼は「有意義的滑稽」(ウィット)と「絶対的滑稽」(グロテスク)を分けている。ベルグソンが考察したのは前者であり、バフチンが考察したのは後者である。いずれに場合でも、結局、笑いは笑う者の優越性の徴である。それらを考察しながら、ボードレールは、どちらとも異なるケースを挙げている。

笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴であると同時に無限の悲惨さの徴であって、人間が頭で知っている<絶対的存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが。(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造形芸術における滑稽について」)

その語を使わなかったとしても、ここで、ボードレールが敬意をもって、例外として挙げているのは、ヒューモアである。それは、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。ヒューモアを受けとる者は、自分自身において、そのような「力」を見いだす。だが、それは必ずしも万人に可能なことではない。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。 
ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

「成島柳北とその愉快な仲間たち」の一員として、正岡子規を入れなければならない。

余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。(正岡子規『死後』)