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2015年2月14日土曜日

社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

以下は、Paul Verhaeghe,”Social bond and authority: everyone is the same in front of the law of difference” .http://www.psychoanalysis.ugent.be/pages/nl/artikels/artikels%20Paul%20Verhaeghe/Socialbond.pdfの全訳である。

“To be published in: Journal for The Psychoanalysis of Culture & Society. Paper orginally presented at the fifth annual conference of the APCS, NY, Columbia University, Oct.99”とあり、1999年10月のレクチャアであるようだ。1955年生まれのポール・ヴェルハーゲであり、当時四十代の半ばということになる。

2001年に上梓された『BEYOND GENDER. From subject to drive 』Paul Verhaeghe http://paulverhaeghe.psychoanalysis.be/boeken/Beyond%20gender.pdf)の第五章「Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real」と第六章「Mind your Body. Lacan's Answer to a Classical Deadlock」の要約としても読める。すなわちより詳細に知りたければ、この『BEYOND GENDER』を参照のこと。

この論文は、『Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”』 http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf(Uppsala, 2 december 2013. Paul.Verhaeghe)と同時に読むと、より得るものが大きい。その冒頭の私訳は、「「アイデンティティ」という語の濫用/復活」に掲げた。


…………

「すべての動物は平等である。だが、ある種の動物は 他の動物より、もっと平等である」。このオーエンからの引用は、われわれの時代の碑文として、とてもよく機能する。じつに、ナイーヴな観点からなら、西洋社会において、われわれはフランス革命の理想“Egalité, Fraternité, Liberté”(平等、友愛、自由)を実現したかにみえる。女は男と平等であり、黒人は白人と平等であり、そして子どもの権利はますます気を配られている。

より詳しい研究が示してくれるのは、この異なった動物のあいだの平等はふたつの要素にかかわることだ。それは社会的絆と権威である。これは二つともフロイトの原始群族の研究から理解できる。「社会的絆」の要素は友愛に還元され、そしてこれは水平的な水準での平等な関係を意味する。フロイトによれば、この友愛は、すくなくとも彼の『トーテムとタブー』(1913)のヴァージョンでは、原父の殺人を基盤としている。だがより知られていないがより重要な後期のヴァージョン、すなわち『モーセと一神教』(1939)では、息子が友愛の基盤である。彼が象徴的な父の人影figureを備え付けるのだ。これは二番目の要素、権威へとわれわれを導いてくれる。フロイトの二番目の伝説のヴァージョンから明瞭になるのは、権威は差異に基づくことである。より具体的にいえば、平等の集団とこの集団に属していないひとりの人間とのあいだの差異である。このひとりの人間は、アウトサイダーとしての特別な立場にあり、この集団の引受人guaranteeの一種として機能する。明らかにフロイトにとっては、この立場は父によって取られる。というのは、彼は、原始集団とエディプスコンプレクスのあいだを繋げているから。

もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威はどぶに嵌っているということである。われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。

重要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。このような社会的症状social symptomsの背景に、われわれは共通のあるひとつの要素を見出す。それは不安である。これは疑いもなく、症状の核であり、どうやってそれを理解したらいいのかという問いをわれわれに課す。これは核となる現象であり、ラカンが主体になることthe becoming of the subjectと呼んだことの中で、われわれをそれを研究しうる。私はすでに他の場所で(Verhaeghe, 1998)、幅広く研究したので、ここではただ二つの過程だけを喚起しよう、それは疎外alienationと分離separationと呼ばれるものだ。この主体になることにおいてIn this becoming、ふたつの過程は、一つに応じれば他を取り除くというふうに機能する。仮にこの機能をこの論文のテーマに適用するならば、そんなに理解することは難しいことではない、疎外は、主体を他者と同じものにすることを余儀なくさせることを。他方、分離とは、差異の可能性の領野を開く。ふたたびくり返せば、同じことと他のことsameness and othernessとは、――われわれがこのあと見てみるように、偶然の一致ではないのだ、ラカンが分析の終りを、全き差異absolute differenceとして定義したことと。その意味とは、 I(A) とobject aのあいだの距離を可能なかぎり大きく保つことということだ(Lacan, 1964, last paragraph).

もしわれわれが、核となる現象としてのこの不安を、発達心理学の観点から見るなら、その答えはもっと一般的で漠然としてしまう。発達心理学はわれわれにこう示すだろう、不安に対処するためには、子どもは安定しかつ先が読める環境で育て上げる必要があると。要するに、子どもはいわゆる「基本的な信頼」が必要だと。

精神分析的観点からは、われわれはもっと具体的である。この基本的な信頼、そこにおいて、主体になることthe becoming of the subjectが起こらなければならないのだが、ひとつの主要な前提を基盤としている。それはエディプスの法の設置と履行である。それは別の問いをわれわれにもたらす。すなわち、エディプスの法とは何? と。現代の劇画化においては、エディプスの法は、一般的に、両親が子どもたちと性交するのを禁ずるなどという事態に還元されてしまう。それは真実だとはいえ曖昧な考え方であり、その地層にはより根本的な領野がある。私の解釈では、エディプスの法は差異そのものを導入する。それ以降、それぞれの社会は、多かれ少なかれ、任意な規則を練り上げてゆく。その規則は、差異の法を履行し、そしてその社会のメンバーの個々のアイデンティティを決定づける。

このようにして、われわれはふたたび疎外-同一alienation-samenessと、分離-差異separation-differenceに出逢う。疎外と同一の軸は、近親相姦の禁止によって取り扱われる。分離と差異の軸は、族外婚の強制に属する。われわれは、この近親相姦の禁止と族外婚の再解釈をこの後しなければならないだろう。今の段階では、こう言うだけにしておこう、差異のエディプスの法は欲望の水準での規則を導入することによって享楽の取り締まりを目指すと。あるいはラカンのディスクール理論の用語を使用するなら、それぞれのディスクールの上部の水準では欲望を取り扱う、それは地層にある享楽の水準を処理するために、である(Lacan,1969)。

※ここでラカンの四つのディスクール論における基本構造を想起しておこう。上方には不可能impossibilitéとあり、下部には不能'impuissanceとある。




ヴェルハーゲの解釈では、このimpossibilitéが象徴界における欲望にかかわり、不能'impuissanceが現実界における欲動にかかわる。寡聞にして、四つの言説のこの箇所を、ここまで明瞭に解釈したラカン派に遭遇したのは、ヴェルハーゲによるものだけである(参照:Paul Verhaeghe FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES)。

さて、われわれの社会の症状に戻ろう。すなわち同一、差異、不安sameness, difference and anxietyである。明らかなのは、なにかがうまく行っていないことである。とはいえ、その行き詰まりの正確な箇所を特定するのはそんなに容易いことではない。臨床的な観点から見るならば、興味深い事実を見ることができる。それは、一方には臨床上の心的外傷性神経症と、他方では、集合的な心的外傷性神経症として考慮しなければならない何かと、その二つのあいだの類似である。実際のところ、心的外傷性神経症の主要な症状のひとつは、自傷行為である。すなわち自らの身体を痛めつけ切りつけることだ。社会的な水準においては、ことさら身体に穴を開けたりする類の振舞いは、一般的には自傷行為の鏡による反映mirrorである(Salecl, 1998:ジジェクの元妻:引用者)。この類似を追及していけば、なんらかの方法で、個人の心的外傷性神経症と集団のそれとの基盤に同様な病因があるに相違ないことを意味する。心的外傷性神経症の病因は次のように知られている。すなわち主体は〈他者〉によって信念から解き放されるdisabused by the
Otherような状況に立ち戻る。それは文字通り、子どもの妄念の解放child disabuseであったり、もっと一般的なものであったりはするが。この状況が意味するのは、ふつうの基本的な信頼が、私が呼ぶところの基本的な不信によって取って代わられてしまうということだ。もしこの類推を続けていけば、われわれは、社会の水準においても、行き詰った、あるいは解放的なdisabusing〈大他者〉と遭遇するに違いない。

これはわれわれを実質ある問いに導いてくれる、もっともいくらかもっと詳述が必要だろうが。すなわち現代の差異と権威の消滅は、トラウマ的である。それは人と同じであることを強制する。それは脅威をもたらし、かつ基盤となる不安を露顕させる。その最も際立った症状としての自傷行為は、身体に奇妙な仕方で作用する。われわれは今三つの関連した問いへの答えを詳述する用意をしよう。

1、地層にある不安とは何についてか?
2、どうやってエディプスの法を解釈すべきか?
3、なぜそれは行き詰まり、どうやって設置しうるか?

まず最初の問いから始めよう。いったいどうしてなのか、なぜなのだろうか、核となる不安が引き起こされるのは。古典的な精神分析的観点からは、ここに去勢不安を期待するだろう。しかし、私の解釈では、それは正しくない。去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉とのあいだの関係から起こる(Verhaeghe,1996)。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に呑み込まれ貪り喰われることである(ラカンの母なる鰐の口を想起せよ:引用者)。すなわち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。この不安に、われわれは数多くの古典的なおとぎ話のなかに出逢う。そこでは、子どもは貪り喰う〈他者〉から逃避しなければならない。おとぎ話の現代的なヴァージョンは、数多くのコンピュータゲームによって創りだされたサディスティックな世界に見出すことができる。たしかに、偶然の一致ではないのだ、これらのゲームの、まさに最初期の初歩的なヴァージョンは、プレーヤーを食べようとする裂けた口によって成り立っている。パックマンゲーム。それは私の言語では文字どおり捕獲する男を意味する。

このように考えることにより、核となる不安は貪り喰う〈他者〉にかかわってくる。そして基本的な目標は、分離であり自分自身のアイデンティティの構築である。事態をいっそう複雑にするのは、われわれは二つのほかのことを同時に理解しなければならないことだ。まず、主体の目標は、ひどくパラドキシカルなものである。というのは、この〈他者〉から逃れたいだけではなく、同時に、この〈他者〉の内に残っていたいのだから。疎外と分離はこのまさに同時的な過程のふたつの要素である。それは、――これから論じるがーーなにか別の描写の仕方もある。それは、フロイトがすでに言及しているが、生の欲動と死の欲動の本質的な混淆でもある。二番目に、主体と〈他者〉のこの闘争は、主体と欲動の内的な闘争に遡ってゆく。別の言い方をすれば、この過程は、たんに間主観的な相互作用には還元されない。

これはわれわれの二番目の問いをもたらす。この基本的な不安の光の下で、どのようにエディプスの法を解釈しなければならないだろうか、と。

私はすでに上に語ったように、この法は差異を設置する。すなわち、疎外を超えて分離を発足させる。はっきりしているのはそれは世代のあいだの、かつまたジェンダーのあいだの差異を設置することだ。あなたは親なのか、子どもなのか。あなたは少年なのか少女なのか、と。そしてこのようなアイデンティティのシニフィアンの発生において、数多くの規則がそれに続く。その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。この近親相姦の原初の形式は、エディプスの欲望を、よりはるかな正確さで理解させてくれるだろう。劇画化された解釈――ジョニーはママとセックスしたいやら、マリーはパパとヤリタイとかの解釈――などより、ずっと正確に、という意味だ。どの子どもも欲しているのは、少年であれ少女であれ、最初の愛の対象との前性器的な自然な統合なのである。どの文化も実際に禁じていることは、この最初の〈他者〉に囲い込まれることである。

より後の段階なのだ、近親相姦の禁止が、父にもまた適用されるのは。そのとき性的近親相姦の禁止が生れる。すなわち、あなたは自身のファルスの快楽によって子どもを捕えてはならない、と。父がこの禁止を無視し子どもを性的対象として使用したとき、まずは誤解がある。子どもは性的側面を理解していないのであり、なにかほかのものを期待/希望する。その何かとは最初の愛と似たようなものである。この近親相姦の形式は、すでに二次的なものであり、深刻なトラウマ的影響を生む。このもともとの、原初的な形式は精神病的な影響を惹起する。これらの両方とも主体が自身のアイデンティティを獲得するのに妨害となる。すなわち分離の過程を妨げる。

この父による近親相姦は、最も一般的であり、かつまた最も広く知れわたっている。それにもかかわらず、地層にある先行したヴァージョンは、ふたつの中でよりいっそうはるかに重要である。ふたたび、わらわれはふたつの異なった水準に出逢う。すなわち一方では欲動であり、他方では享楽である。まさにここにあるのだ、享楽が法的な世界へと遡るその十全な意味が。その意味とは、あなたに属していない何かを楽しむ、“usufruct用益権”(ラカン『アンコール』で出現する用語であり「享楽」の元々の意味:引用者)ということである。

しかしふたたびくり返せば、エディプスの法はたんなるエディプスよりもいっそう根本的なものである。その意味は、貪り喰う母と倒錯的な父の間主観性の状況を超えていくということである。実に、私が近親相姦の禁止を原初の形式を示した方法は、「母への非難motherblaming」として、とてもうまく解釈されうる。重要であるのは、病理的な母性を超えて、次ぎの事実を強調することである。、最初の〈他者〉としての母は、主体自身の欲動を表わすのだ。どの主体もこの欲動を取り扱わねばならない。その意味は、リアル(現実界)のこの部分を象徴化しなければならないということである。

エディプスの構造(その意味は、前エディプスとエディプスの両方)は、この欲動の取扱いの過程の文化的に承認された解決法以外のなにものでもない。私の観点からは、分離はエディプスの分離よりももっと根本的なものである。それは人間になることthe becoming of a human beingにおける必須の内的な分裂に関係するすべてである。これはおそらくラカン理論のなかで最も難しい箇所である。主体と〈他者〉とのあいだに開いたままでしかありえない裂け目は、もっと原初的な生と死とのあいだの裂け目に遡る。すでに1948年に、ラカンは書いている、人間においては「裂開déhiscence」があると。有機体のまさに核にある裂け目、原初の不調和discordance(Lacan, 1936)。そして彼の後の仕事は、この裂け目のエラボレーションとしてとてもよく読み得る。

それを要約してみよう。ラカンは、いくつかの具体的水準において私たちに提供した円形の、だが非相互的な関係を話題にする。しかしそれらのすべては同じ原初の分裂に遡る。そしてどの水準でも、私たちは疎外と分離のダイナミズムを見出す。最初のそれがかかわるのは、ラカンが呼ぶところの「生の到来the advent of the living」である。それが意味するのは同時に永遠の生の喪失である。二番目がかかわるのは、「私の到来the advent of the I」である。そしてそれは身体の喪失である。最後のものがかかわるのは、「ファルスのアイデンティティの到来the advent of the phallic identity」であり、それは女性性の喪失を意味する。これらのすべては、同じ種類の相互作用を表している。原初の完全無欠性があり、そこから分離した生産物が出現する。原初の完全無欠性はその喪失した部分を取り戻そうとつとめる。それと同時に、この部分は二方向の方法をとる。原初の全体性に戻りたいとする方向(疎外)と、同時に自身のアイデンティティに張り付いていたいという方向(分離)。生産物が原初の全体性に戻ろうとするやり方は、分離をその裏に書き込んでいるendorse。その意味は、この過程は絶え間なく続くということだ。

ラカン理論のこの部分(Lacan, 1964: 197-98, 204-05)を説明するために、初歩的なレベルでの私の解釈を提示しよう。出生時の生の到来the advent of the living at the moment of birth。性的に差異のある生の到来の形式は、永遠の生の喪失を意味する。ラカンはそこで対象aという用語をつくり出す。その意味は生の本能の純粋な喪失であるということだ(ラカンのラメラをめぐる記述を想起せよ、ラカンはそこでは珍しく欲動ではなく本能という語彙を使用している:引用者)。この永遠の生、古典的なギリシア用語のゾエZoëは、生、すなわちビオスBios、個人の生の形式に向けての強い牽引力の原理として作用する。もしこの作用が継続すれば、この個人の生は、より大きな永遠の生に向けて消滅(疎外)して死ななければならない。そしてこれは他の傾向を説明する。それは分離である。永遠の生を奪還しようとする「通常の」解決策はただ失敗するだけではなく、原初の裂け目が裏書きendorseされている。実際に、ビオスは性的再生産を通してゾエに加わろうとする。そしてこれは原初の喪失を反復する。この最初の瞬間以降、生と死の欲動は混じり合う。

生と死のこの相互作用は円形だが、非相互的な関係a circular but non-reciprocal relationship (Lacan, 1964: 207)を齎す。現実界の水準での喪失は、先行する永遠の生への回帰への絶え間ない試みのなかに、生を変形させる。この相互作用は、二つの要素をわれわれに委ねる。ひとつは引き付ける力として作用し、他方は回帰したい、かつ同時に前に動きたいというものだ。これは、フロイトが言及した (Freud, 1937c)、愛philia と闘争 neikosである。これらの相互作用は、おのおのの時に、異なった水準で上演される。それは、非-関係性と原初の裂け目が書き込まれている。この原初の裂け目の最終的な結果は、性関係の非-存在である。

この光の下では、基本的な不安は死、すなわち先行する全体のなかに消滅する怖れにかかわる。基本的な法は原初の裂け目が書き込まれており分離を設置する。その意味は、差異である。このようにして、主体を欲望の絶え間ない泡のつらなりへと放り出しかつまた享楽の水準から主体を追い払おうとする。これはわれわれに最後の問いをもたらす。すなわち、なぜこの法は現在うまくいっていないようにみえるのか? そしていかにして法を設置するのか? と。

フロイトの答はよく知られている。とはいえ大概は誤解されているが。『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。

フロイトの答の問題は、まったく父権的なものであり続けたことだ。分離の機能は象徴的秩序を通して上手く作用する。しかしフロイトにとって、この秩序は父と同義であり続けた。ラカン自身はこの点でとても興味ぶかい革新を導入した (Porge, 1997)。初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。

実際のところ、「古き良き時代」という考え方は、つねに偽物である。むしろぎょっとしてしまう、そんな考え方をラカン理論のある種の解釈から導き出しているのを見ると。こういった解釈においては、その誘導的な考えというのは、父のシニフィアンpaternal signifierの必要性に関わっており、古典的な家父長制からわずかに一歩だけ足を出しただけのものである。これはひどくナイーヴである。というのはより詳しく研究すれば、父のシニフィアンは、「古き良き時代」のあいだでさえ、機能していなかったということが証明されるからである。実際のところ、フロイトの事例研究を読めば、はっきりしているのは、それらのすべては、父がその機能に応じて生きていないのだ。概念的な水準では、フロイトは原父の神話とそれに伴なった無意識の集合的記憶を発明しなければならなかった、この父、その現実生活における不在や失敗は見え透いている父に書き込むために。王は裸である。

絶え間ずしくじる父の人影figureを認めるかわりに、はるかに興味ぶかいのは、神経症的主体はその機能のためにこの人影を必要とし、それをつねに構築するということを観察することだ。もっとも、それは満足した仕方ではけっして働かないが。「古き良き時代」において、この構築は、家父長制の環境によって承認された。それはフロイト自身の発明による神話でさえもそうである。しかしこれは個人の水準での行き詰まりを防止しえなかった。今日、この文化的な承認は消滅した。結果として、われわれは、この機能を充たすための、より根源的な問いを提出しうる。

こういうわけで、われわれの次の問いである。すなわち、シニフィアンを通しての、この名付けnamegivingの分離機能のようなものの設置をどうしたらいいのか。フロイトさえすでこの問いと格闘していた、たとえそれが彼の父権的なヴァージョンの限定内部でのことであれ。フロイトにとって、問題は次のようにまとめられうる。具体的な父は、この機能を得るための権威を獲得する、というのは一神教の家父長制度を通して彼にそれが授けられるからである。人びとは家父長的な父-神の全能性を信じる。そしてどの具体的な父もこの権威を分かち合う。それは勿論フロイトにこの一神教の神の権威の起源にかかわる問いを残す。フロイトの答は、まったく現実的なものである。すなわちこの人影figureが彼の権威を授けられるのは単純に人びとが彼を信じるからだというものだ(マルクスの言葉を想起しておこう、《この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが彼らは反対に、彼が王だから自分たちは臣下だと思うのである》と。;引用者)。
フロイトは教会の父たちのひとりさえ引用する。彼は見たところ、すでに同じ問題を議論し、そして同様に適切な答を見出せなかった。テルトゥリアヌスの引用は、すなわち“Credo quia absurdum” 「不合理なるがゆえに信ず」である(Freud, 1939a, 118)。

ラカンとともにわれわれが取る賭金は、われわれをもう少し先にもたらしてくれる。しかし最終的にはまさに同じ問題を残したままである。われわれを先に連れて行くというのは、必要不可欠な家父長制度という考え方から解放してくれるからだ。実際には、どのアイデンティティを提供してくれるシニフィアンでも同じことが可能だろう。しかしここでも同じ問題が残ったままだ。構造言語学、すなわちソシュールを考慮に入れるなら、われわれはすぐさま見出すだろう、シニフィアンは意味作用を獲得する、したがって力を獲得すると。だがそれはただ一つの条件の下でだけである。すなわち慣習に立ち戻ることになる。つまりある集団の、ある集合体によって共有され信じられたシニフィアンということである。

この共有された信念と慣習を超えて、われわれは精神病者に出逢う。そしてこの精神病者の新しいシニフィアンと新造語を創造するまさに個人的な試みと、それに伴なった新しい信念に出逢うのだ(ラカンのジョイスをめぐるセミネールのサントーム(父の名の代替シニフィアン)の発明のことが含意されている:引用者)。

結論を掲げる。どの人間もふたつの傾向に引き裂かれている、現実的な選択はなしに(有名な疎外のヴェル[vel] Lacan 1964)。先行した全体性へと回帰する傾向は、必然的にそれ自身の死を伴ない、原初の不安を呼び起こす。己自身のアイデンティティを創造する傾向、すなわちただ残された唯一の選択は、主体を絶え間ない欲望の鎖のなかに引き込む。二つのあいだの移行は、主体のアイデンティティを他の集団に移行させるシニフィアンを要求する。しかしそのための欠かせない地盤は、まさにこの集団によるシニフィアンのなかにある共有された信念である。

現在の主要な問いは次ぎのようなものである。われわれはどうやって古典的な支えとしての父権的人影にあった古典的な信念に陥ることなしで、この信念を復活させ得るか?

…………

以上である。さていくつかの要点を、ヴェルハーゲの別の論文からのいくらかの引用とともに、抜き出しておこう。


エディプス(権威)の消滅、すなわち第三者の支えを失うことにより、平等や自由が実現されるどころか、二者関係(主―奴)による権力の猖獗を招き、勝つか負けか(勝ち組、負け組)の状況を生み出している。

……ヘーゲルはカントのすぐ後にこのことに気がついてやってきて、「精神現象論」を欲望、Begierde をもってはじめるのである。彼はたったひとつしか間違いをおかさなかった。彼は鏡像段階についての知識を―彼の内にそれに相当するものを認めることはできるが―何も持っていなかったということである。その結果、あらゆるものを主人と奴隷の関係の観点に置くという、取り返しのつかない混乱を生みだし、それによって自分のやったことを台無しにしてしまい、すべてを最初の観点から考え直さなければならないのである。(ラカン『セミネールⅩ 同一化』向井雅明訳)

ーーとはいえジジェクのヘーゲル読解においては、大いに異議のあるところである。

さて、元に戻れば、エディプスの権威の消滅の帰結とは、具体的には、新自由主義の席捲である(参照:the guardian(2014.09.24 Paul Verhaeghe) 「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらしたNeoliberalism has brought out the worst in us」)。


エディプスの崩壊によって人びとには不安が引き起こされている。その不安とは、〈父〉による去勢不安ではなく、より原初の不安、すなわち〈母〉に貪り喰われる不安である(全面的な疎外)。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(Lacan,Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, 1960-1970,)

近親相姦の最初の意味は、けっして父と娘の性交ではなく、母が自らの生産物である子どもとの前性器的な結合に囲い込まれることである。ヴェルハーゲの別の論文から引用すればこうある。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(Paul Verhaeghe ,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUELーー「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」より)

去勢不安についてより詳しくは、「男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」」を見よ。


ラカン理論の疎外と分離は、究極的には、フロイトのエロスとタナトスのことである。上に引用した文に、《女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する》とあるが、この同一化とはラカン用語では「疎外」である。そしてそこから逃れようとするのが「分離」である。

ここでもヴェルハーゲの別の論文の一節を掲げておこう。

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe,BEYOND GENDER. From subject to driveーー「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

たとえば岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』にはヘーゲルを引用してこうある。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

《[欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。》

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。  

これ自体、エロスとタナトスの原初的な欲動(現実界)の象徴界における二次的な顕われ(欲望化)であるだろう。すなわち他人と同一の存在でありたい(疎外)、他人との差異を際立たせたい(分離)として読むことができる。
エロスとタナトスは切り離された欲動ではない。その二つは、生の過程を逆の方向を言い表わす。明らかにされることは、次の典型的な特徴である。二つの方向の一方がより現前化し優勢になると、他の方向がより強くなるということだ。それはエロスとタナトスの二組だけのことではない。ヨーロッパが統合すればするほど、ナショナリストや、さらには地域主義者さえより強くなる。(Paul Verhaeghe 『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』ーー「欲動融合Triebmischung」と「差別」欲望


フロイトの『トーテムとタブー』1913の原父の神話ではなく、『モーセと一神教』 1939の重要性が強調される。そこでは「死んだ父」が息子によって設置されて父の象徴的機能を果たすことが暗に説かれている。

C'est beaucoup déjà qu'ici nous devi,ons placer, dans le mythe freudien, le Père mort. (Lacan, 1966, p. 818  Ecrits)

名づけname-givingの機能の象徴的重要性が強調される。それは子どもを原初の母子共生関係から解放する。これはラカン派的にはサントーム(「父の名」、しかも複数形)の発明にかかわる。

Eh bien, les noms du père c'est ça: le symbolique, l'imaginaire et le reel en tant qu'à mon sens – avec le poids que j'ai donné tout à l'heure au mot ‘sens', c'est ça les noms du père, les noms premiers en tant qu'ils nomment quelque chose. J. Lacan, R.S.I., 3/11/75

“Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”にはこうある。

重要なのは、父とその機能を差異化することである。機能は母と子どもの分離にかかわる。それは〈他者〉の享楽から子どもを解放することを必然的に伴なう。もしこの分離が、二番目の〈他者〉としての父への疎外として終わってしまうのなら、それは構造的には母への疎外となんの相違もない。ラカンの意図はこの点を超えていくことであった。そしてそれがラカンがこの機能――分離――とその象徴的特性に焦点を絞った理由である。象徴的特性の意味とは、作用する要素がシニフィアンであるということである。フロイトの時代では、シニフィアンは本当の父に繋がれられた。しかしこれは歴史的な偶然である。まさに同じ機能が、氏族内のトーテムの名づけを通して設置される。分離とはまた名づけを通して設置されるのだ。そして同じように、そこに最初の、外部から決定されたアイデンティティーー母の集団の一員―ーは、二番目の、外部から決定されるアイデンティティーー兄弟と叔父の集団の一員に取って代わられる。両方の例とも、名づけの過程が中心的なものである。そしてまさにこの過程なのである、ラカンが後期の理論で特権化したのは。それにもかかわらず、両方の事例において、次の事実は残ったままだ。すなわち、主体はいまだこの名づけとそれが表すものを、かつまた〈他者〉によって決定されたそれらを新人なければならないという事実が。

it is important to differentiate between the father and the function. The function relates to the separation of mother and child, entailing the liberation of the latter from the jouissance of the Other. If this separation ends up as an alienation, with the father as a second Other, then there is structurally no difference between it and the previous alienation. It was Lacan's intention to get beyond this point, and that is why he focused on the function – separation – and its Symbolic character, meaning that the operative factor is a signifier. In Freud's time, this signifier was linked to the real father, but this is a historical contingency. The very same function can be installed through a totem name-giving within a clan structure. There, separation is also attained through name-giving, and likewise there a first, externally determined identity – member of the mother group – is also replaced by a second, externally determined identity – member of the brother and uncle group. In both cases, the process of name-giving is the central one, and it is precisely this process that Lacan privileges in his later theory. Nevertheless, the fact remains that in both cases the subject still has to believe in this name-giving and what it stands for – and these are determined by the Other. (Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way)

この後、ジョイスのセミネール(サントームのセミネール)などが言及され、シニフィアンの発明が説かれるが、いまは割愛。かわりに最晩年のラカンの言葉を引用しておく。

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

結論として、《現在の主要な問いは次ぎのようなものである。われわれはどうやって古典的な支えとしての父権的人影にあった古典的な信念に陥ることなしで、この信念を復活させ得るか?》とある。

ヴェルハーゲ自身も、そしてラカン理論からも、この新しい「父の名」のシニフィアンを復活させ、社会を権力の猖獗から逃れる方策を提示しているわけではない。

1998年に上梓され、彼の最もよく読まれた書(八ヶ国語に翻訳)には、こうある。

At most, there was a replacement in which one primal father was substituted for another (The King is dead, long live the King!'), Moses by Christ, Christ by Mohammed, both by Marx, and so forth. (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

原父は死んだ。それは他の者たちに代替された。その後、モーセはキリストによって、キリストはムハンマドによって、その両者はマルクスによって、とある。

たしかに、権威が消滅して権力がいっそう猖獗するようになったのは、マルクスが死んでからである。すなわち現在は、資本の欲動が席捲する時代である、《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス)

冷戦時、すなわちいまだコミュニズムのまがりなりにも大文字の理念が生き残っていた時代におこる東西間の政治的安定をめぐっては、ジジェクと中井久夫の明晰な分析がある(参照:徳の俳優と悪の俳優)。だがいまは別の文章を抜き出しておこう。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」ーー「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)より)
悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち


最近のヴェルハーゲは、1990年以降の市場原理主義社会(新自由主義社会)における病理をたんに父権制社会の消滅のせいとして片付けるわけにはいかないとする。彼は21世紀の先進国における病理のよってきたる社会を「エンロン社会」と名づけている。すなわち、マッキンゼー出身でエンロン社CEOになったジェフリー・スキリングの「ランク・アンド・ヤンク」方式ーー役員から社員までをランク付けしておいて、下位の者をクビにしていくーーこの差別化方式がその多寡はあれ、あらゆる領域で運用されている社会である。(参照:Paul Verhaeghe,Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontentーー「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」より)