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2015年2月9日月曜日

言語の深部構造(中井久夫)

以下はそのほとんどが雑駁な個人的メモである。


まず、中井久夫による「言語の深部構造」という表現が出てくる文章をいくつか拾う。

最近の言語心理学によれば、二歳半から三歳半までのあいだに「成人文法性」adult grammaticalityが顕在化する(Steven Pinker)。これは有限の規則によってほとんどあらゆる事態を表現し伝達できる能力である。「成人文法性」の複雑さはまだまだ究められていないように私は思う。それには生得的な基本構造があって、それはd構造と呼ばれる(「深部構造」を一般化して頭文字のdをとったのである)。少なくとも、ユーラシア大陸の言語のd構造は共通であるという。この主張には異議が出ているらしい。しかし、世界中の人間集団で、いかに「原始的」な生活を営んでいる集団でも、すべて、同程度の複雑な文法性を有する言語使用者である。人間の三歳以前の片言のような言語を用いている人間集団、すなわちわずかな単語と簡単な文法を持つ民族・部族は発見されていない。これはいうまでもない事実であるが、単純な進歩史観のために、最近まで強調されることがなかった。さらに、どのような民族の子どもが、別のどのような民族(部族)の中で育てられても言語習得に支障のない点から考えても、共通性を持つ深部構造の存在は大いにありうることだと私は思う。(中井久夫「発達的記憶論」 『徴候・外傷・記憶』所収 PP.44-45)


◆中井久夫「親密性と安全性と家計と共有性と」 より

実際、私たちの赤ん坊は、まだ、木によじのぼり、枝にぶらさがる反射を示す。それは発達の初期に限られた森林生活の痕跡だが、大人の私たちも依然、食物を食べようとする直前、餌を奪いにくる者がいないかどうかを確めようとあたりをさっと見回す。これはアイブル=アイベスフェルトが、カメラのレンズの向きを、みせかけの向きと直覚につけつという巧妙な方法で証明したことで、当人には全然意識されていない。これは、ニューギニアから西欧まで同じである。

こういう人類共通の挙動の上に、民族とか集団とか国民とかのさまざまな人間集団に共通で、他集団とは異なる挙動が重なっている。たとえば、うなずきを意味する動作、否定を意味する首の振り方は、民族によって違っている。

なによりも違うのは言語だと私たちは考えがちである。ただ、これは、共通の祖先と確実に言える言語を持たない日本人が強調するほどではないのかもしれない。最近の研究は、言語の深部構造が少なくともユーラシア大陸全体にわたって共通であると言わんとしているようだ。日本語は音節の数が少ないために他言語の聞き取りに非常に不利であり、音節の数が飛び抜けて多い英語と向かいあう時、私たちは絶望するのだが、聞き取りさえできれば、だんだん何となくわかってくるという体験は、私もインドネシアでしたことがある。外国人に道をきかれた時のために、ぐらいの動機では外国語が身につかなくて当然である。ほんとうに必要なら話は全く別である。小学校の歴史の時間に、新羅や百済の大使と日本側とは何語で話したかと考え込んだが、実際はお互いにそんなに困らなかったのではないか。私は天理教の外国伝道師の言語能力に驚嘆したことがある。いや、方言にかんしては、多くの人が引っ越し先で経験しているだろう。鶴見俊輔先生は、インドヨーロッパ語ならなんとなくわかるという。亡くなった長張吉さんは、ソウルに留学して朝鮮語が一〇〇パーセントの外国語には聞こえなかったという。お二人は異能の人だろうが、私にも多少、そういう感覚がわかる。言語でも数学でも「動物的感覚」が予想以上の役割を果たしていると私は思う。意識的知性だけで挑むと「わからない」部分がある。(「親密性と安全性と家計と共有性と」『時のしずく』所収 PP.119-120)

◆中井久夫「訳詩の生理学」より

私のいわんとするところを一言にしていえば、二つの言語、特に二つの詩 ――原語とその訳詩――の言葉は、言語の深部構造において出会うということである。ここにしか、二つの言語、特に詩の訳のためのミーティング・プレイス(出会いの場所)はない。もっぱら表層構造において出会いの場を作ろうとするから、翻訳は不可能かどうかという不毛な議論が生まれてしまうのである。

私のいう「深部構造」とはチョムスキーの概念とはちょっと違っている。文法の深部構造だけが問題ではない。音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋から舌筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発生筋群の運動感覚( palatabilityとはpalate 口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのに使っている)、音や文字の色感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。

そして、最後に、それらの要求水準とでもいうべきものがある。たとえば、ある詩のイマジャリーにはその水準がある。音についても、他の何についても同様である。ある詩のイマジャリーのプレグナンス(充実度 ――形よくふくらみ張り方というか)が中途で突然低下するような時には、それが意図的に一つの効果を狙った場合を除くが、一般には読む者に言いがたい不快感を感じさせる。特にそれが詩であれば、すぐれた詩ではありえない。また訳詩であれば、訳に問題があるのか、原詩に問題があるのか、その両者かである。一つの訳のイマジャリーにはそれぞれ固有のプレグナンスがあるはずである。訳詩もそうでなければならない。

私のいう意味での深部構造が二言語のミーティング・プレイスであるという証拠を一つ挙げておこう。私には外国人の精神医学的面接を行う機会がある。ところが、外国語で行った面接は回想において速やかに日本語に変ってしまう。それも抑揚の自然な、会話体の、さらに精神医学的面接に使われる問答体の日本語に変換される。このことによってようやく、患者と私との相互作用は私に受肉したということができる。

外国人との重要な出会いも私の中で自然な日本語になっている。

ということは、それは劇に近づいているということでもある。肉体にまで達する「深部構造」をゆさぶることによって劇ははじめて劇なのではないか。私が冒頭に述べた、訳詩というものは劇化の過程を通過するという示唆はこの経験にもとづいている。

面接においてはなるほどメモをとりはするが、メモは再生の手がかりのようなもので、会話は何よりもまず一挙に私の記憶に刻印される。暗誦されるといってよい。

実際、私は詩を訳する時、それをまず暗誦しようと試みる。暗誦できない詩、暗誦していると不快感が起こる詩、あるいは何かどこかで “つかえ” を感じる詩には、私の深部構造をミーティング・プレイスとして提供できない。原詩と、やがて生まれるであろう訳詩のための、私の言語、正確には「プレ言語」とでもいうべきものであろうが、そういうものと出会えないということである。そういう詩は訳せない。深部構造とか何とか、しちむつかしいことを言ったが、そのテストはあっけないほど簡単である。私にとっては暗誦に耐えるかどうかである。

面接の時と同じく、詩の暗誦においても、どこかの部分が暗誦しているうちに自然に日本語に変ってしまう。どうしてかは私にはわからない。私は私の中の「言葉のミーティング・プレイス」を信頼してこの作業を遂行する。それは、たぶん、ドライヴァーが自動車をおのれの一部と観じてまるごと信頼しているようなものであろう。私の意識をモニターすれば、何か混合や消化が起こっているような鈍い感覚しかない。なるほど、この過程には、精神医学的面接において構造が浮かび上がってくるのを待つのと同じ忍耐が必要である。しかし、いずれは詩句が焼き上がった形で浮かび上がってくる(来なければ時期を置いて繰り返し、いくらやっても駄目なら放棄する)。(中井久夫「訳詩の生理学」『アリアドネからの糸』所収 PP.249-250)


◆中井久夫「詩を訳すまで」より

私たちは何となく、二歳半から三歳以後、記憶と人格との連続性が成立するまでの断片的な古い型の記憶しかないのは幼年時代の頭の能力の不足のように思っているのではないか。

しかし果たしてそうか。最近の言語心理学の成果は、二歳半から三歳の間に「言語爆発」とでもいうべきものが起こって、急速に成人文法性adult grammaticalityとでもいうべきものが成立することの発見である。成人文法性とは何であろうか。有限の規則と有限の語彙とを持って、ほとんどあらゆる場合を記述することができる魔法の道具である。しかも、同時に、それは視覚の持つ強烈な圧力をその一次元性によって減圧することができる。私は、私の子どもが、夢を言語で表現できるようになった時から、うなされなくなったことを思いだす。「二歳半から三歳」という規定は新しい学説を主張する者らしい些か狭すぎる日付限定であるかもしれないけれども、私は基本的にこれを真の発見だとして支持したい。

言語心理学の主張は、これがもっぱら幼児語で育てられた子どもでも起こることと、その開花が短期間に起こることから、これが先天的に人間の脳に作り付けになっている「言語の深部構造」が活動を顕在化させたのであるというものである。すなわち、これはアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーの「デカルト的言語学」、すなわち個別言語に共通な深部構造があり、それは生得的なものであるという主張を生理学的に裏付けるものである。

思えば、そのころの小児は、しきりに大人のいい損ないを訂正しては楽しんでいるではないか。新しく現れた能力を使ってみたくて仕方ないのだ。たとえば、李 凌燕 さんの『中国の子供はどう中国語を覚えるか』を読むと思わずにやりとする。あるいは、小児自閉症が二歳半以後に顕在化することを思い合わせてもよかろう。それはこの時点での挫折である。

実際、精神分析学は、この切れ目をエディプス・コンプレクスの成立期としてきた。しかし、バリントなどは、定義を言語の領域に移しかえて、エディプス期とは三者関係の成立期であり、三者関係を待って初めて成人共通言語adult common languageが通用するのであり、それ以前は二者にしか通用しない特殊言語であるとした。いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収 PP.230-232)
私は、成人型の深層構造が成立していさえすれば、翻訳という行為は生理現象に近いのではないかと考えている。私はたまたま精神科医であるために、時には外国語使用者と面接せざるをえないことがある。しかし、会話の記憶はもはや外国語でなく、抑揚も問合いも語調も語の選択も状況的に自然な日本語の会話になっているのである。面接だけでない。学者仲間や友人である外国人との会話も、意味深い会話、すなわち言葉でなく伝達する内容に焦点を当てた、いわば「焦点深度の深い」会話の記憶は日本語になってしまっている。この事実に気づいたのは精神科医になって十年目ぐらいであった。

これは詩の翻訳の場合にもある。私はヴァレリーの「若きパルク」の最初三行に出会ったのはたぶん十六歳の時であった。この時期の少年らしく、それはまるごとフランス語で記憶されてしまった。二十五年経ってこの詩を引用する時、私は「過ぎ行く一筋の風ならで誰が泣くのか/いやはての金剛石とともにひとりあることひとときに?……/だが誰が泣くのか、その泣く時にかくもわが身に近く?」という訳を付けた。これは誰かの訳を記憶していたのだとその時の私は思い込んで疑わなかった。それからまた二十年近く経って、あろうことか、「若きパルク」を全訳してしまった、その時、私がこれ以外の訳をいくら考えても、またこの訳に戻ってしまうのであった。私は、これは一体誰の訳かといぶかって探し回ったが、実に誰の訳でもないのであった。残る僅かな可能性は、この詩を紹介した若い教師の訳であるが、今となっては氏も記憶しておられない。この訳は、深部構造をとおすことによって生まれた先の会話の自然訳と同じ構造で私の中から出てきたらしいものである(原詩人にとっても、これは「ミューズ」に与えられた詩句らしい)。(同上 PP236-237)


…………


さて、中井久夫の書く「言語の深部構造」を、わたくしの手元にある書物から、気づいた範囲内で拾い出したが、このテーマについては、わたくしは今までことさら気にしていたわけではない。むしろどこか齟齬感がありつつ、わたくしには柄でもない能力、わたくしの器量からはほど遠い話だな、という感慨を抱いていたにすぎない。

ところでフロイトの『モーセと一神教』を読んでいたら、次のような叙述にめぐり合った。わたくしは手元に邦訳がないので、英訳(Moses And Monotheism)のまま抜き出す。注目したいのは、「太古の遺産archaic heritage」という表現である(フロイトのこの概念が、フロイトのアキレス腱と見なされてきたということを知らないわけではない)。

The impressions of early traumas, from which we started out, are either not translated into the preconscious or are quickly put back by repression into the id-condition. Their mnemic residues are in that case unconscious and operate from the id. We believe we can easily follow their further vicissitudes so long as it is a question of what has been experienced by the subject himself. But a fresh complication arises when we become aware of the probability that what may be operative in an individual's psychical life may include not only what he has experienced himself but also things that were innately present in him at his birth, elements with a phylogenetic origin - an archaic heritage. The questions then arise of what this consists in, what it contains and what is the evidence for it.

The immediate and most certain answer is that it consists in certain dispositions such as are characteristic of all living organisms: in the capacity and tendency, that is, to enter particular lines of development and to react in a particular manner to certain excitations, impressions and stimuli. Since experience shows that there are distinctions in this respect between individuals of the human species, the archaic heritage must include these distinctions; they represent what we recognize as the constitutional factor in the individual. Now, since all human beings, at all events in their early days, have approximately the same experiences, they react to them, too, in a similar manner; a doubt was therefore able to arise whether we should not include these reactions, along with their individual distinctions, in the archaic heritage. This doubt should be put on one side: our knowledge of the archaic heritage is not enlarged by the fact of this similarity.

Nevertheless, analytic research has brought us a few results which give us cause for thought. There is, in the first place, the universality of symbolism in language. The symbolic representation of one object by another - the same thing applies to actions - is familiar to all our children and comes to them, as it were, as a matter of course. We cannot show in regard to them how they have learnt it and must admit that in many cases learning it is impossible. It is a question of an original knowledge which adults afterwards forget. It is true that an adult makes use of the same symbols in his dreams, but he does not understand them unless an analyst interprets them to him, and even then he is reluctant to believe the translation. If he makes use of one of the very common figures of speech in which this symbolism is recorded, he is obliged to admit that its true sense has completely escaped him. Moreover, symbolism disregards differences of language; investigations would probably show that it is ubiquitous - the same for all peoples. Here, then, we seem to have an assured instance of an archaic heritage dating from the period at which language developed. But another explanation might still be attempted. It might be said that we are dealing with thought-connections between ideas - connections which had been established during the historical development of speech and which have to be repeated now every time the development of speech has to be gone through in an individual. It would thus be a case of the inheritance of an intellectual disposition similar to the ordinary inheritance of an instinctual disposition - and once again it would be no contribution to our problem.

The work of analysis has, however, brought something else to light which exceeds in its importance what we have so far considered. When we study the reactions to early traumas, we are quite often surprised to find that they are not strictly limited to what the subject himself has really experienced but diverge from it in a way which fits in much better with the model of a phylogenetic event and, in general, can only be explained by such an influence. The behaviour of neurotic children towards their parents in the Oedipus and castration complex abounds in such reactions, which seem unjustified in the individual case and only become intelligible phylogenetically - by their connection with the experience of earlier generations. It would be well worth while to place this material, which I am able to appeal to here, before the public in a collected form. Its evidential value seems to me strong enough for me to venture on a further step and to posit the assertion that the archaic heritage of human beings comprises not only dispositions but also subject-matter - memory-traces of the experience of earlier generations. In this way the compass as well as the importance of the archaic heritage would be significantly extended.

On further reflection I must admit that I have behaved for a long time as though the inheritance of memory-traces of the experience of our ancestors, independently of direct communication and of the influence of education by the setting of an example, were established beyond question. When I spoke of the survival of a tradition among a people or of the formation of a people's character, I had mostly in mind an inherited tradition of this kind and not one transmitted by communication. Or at least I made no distinction between the two and was not clearly aware of my audacity in neglecting to do so. My position, no doubt, is made more difficult by the present attitude of biological science, which refuses to hear of the inheritance of acquired characters by succeeding generations. I must, however, in all modesty confess that nevertheless I cannot do without this factor in biological evolution. The same thing is not in question, indeed, in the two cases: in the one it is a matter of acquired characters which are hard to grasp, in the other of memory-traces of external events - something tangible, as it were. But it may well be that at bottom we cannot imagine one without the other.

If we assume the survival of these memory-traces in the archaic heritage, we have bridged the gulf between individual and group psychology: we can deal with peoples as we do with an individual neurotic. Granted that at the time we have no stronger evidence for the presence of memory-traces in the archaic heritage than the residual phenomena of the work of analysis which call for a phylogenetic derivation, yet this evidence seems to us strong enough to postulate that such is the fact. If it is not so, we shall not advance a step further along the path we entered on, either in analysis or in group psychology. The audacity cannot be avoided. And by this assumption we are effecting something else. We are diminishing the gulf which earlier periods of human arrogance had torn too wide apart between mankind and the animals. If any explanation is to be found of what are called the instincts of animals, which allow them to behave from the first in a new situation in life as though it were an old and familiar one - if any explanation at all is to be found of this instinctive life of animals, it can only be that they bring the experiences of their species with them into their own new existence - that is, that they have preserved memories of what was experienced by their ancestors. The position in the human animal would not at bottom be different. His own archaic heritage corresponds to the instincts of animals even though it is different in its compass and contents.

After this discussion I have no hesitation in declaring that men have always known (in this special way) that they once possessed a primal father and killed him.

Two further questions must now be answered. First, under what conditions does a memory of this kind enter the archaic heritage? And, secondly, in what circumstances can it become active - that is, can it advance to consciousness from its unconscious state in the id, even though in an altered and distorted shape? The answer to the first question is easy to formulate: the memory enters the archaic heritage if the event was important enough, or repeated often enough, or both. In the case of parricide both conditions are fulfilled. On the second question there is this to be said. A whole number of influences may be concerned, not all of which are necessarily known. A spontaneous development is also conceivable, on the analogy of what happens in some neuroses. What is certainly of decisive importance, however, is the awakening of the forgotten memory trace by a recent real repetition of the event. The murder of Moses was a repetition of this kind and, later, the supposed judicial murder of Christ: so that these events come into the foreground as causes. It seems as though the genesis of monotheism could not do without these occurrences. We are reminded of the poet's words:

Was unsterblich im Gesang soll leben, Muss im Leben untergehn.¹
¹ [Literally: ‘What is to live immortal in song must perish in life.'] Schiller, ‘Die Götter Griechenlands'.

フロイトのこの最晩年の論文の端緒は、もともとユダヤ人の特徴、そのアイデンティティと言われるものを過去の歴史的文脈とどう結びついているかという問いであり、ユダヤ人のcharacter-trait(Charakterzug)をめぐる。それがモーセにあるというものだ(いわゆる「神(モーセ)に選ばれた民」)。もちろんこの”Charakterzug”という語から、フロイトの『集団心理学と自我の分析』に現れた”Ein einziger Zug”、ラカンの”UNARY TRAIT”(唯一の特徴)というシニフィアンへの同一化に思いを馳せることもできるが(参照:三種類の同一化(コレット・ソレール))、いまの私にはいささか手が負えない。というわけでその議論はここでは外す。

※まったくお付き合いがないドイツ原文と英訳を並べてみても詮方ないが、おそらく核心部分ののひとつの原文はこの箇所だろう。

it was the man Moses who imprinted this trait - significant for all time - upon the Jewish people. He raised their self-esteem by assuring them that they were God's chosen people, he enjoined them to holiness and pledged them to be apart from others.

daß es der Mann Moses war, der dem jüdischen Volk diesen für alle Zukunft bedeutsamen Zug aufge-prägt hat. Er hob ihr Selbstgefühl durch die Versicherung, daß sie Gottes auserwähltes Volk seien, er legte ihnen die Heiligung auf und verpflichtete sie zur Absonderung von den anderen

…………

たとえば、前期フロイトの『夢判断』には、ニーチェを引用しつつ「太古的遺産」という表現が出てくる。いまはこの文章だけ拾うが、ざっと英文のPDFファイル(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)を見渡してみたが、”archaic heritage”という表現は、とりわけフロイトの主著といわれる有名な論文のなかに、くり返し現れている。

夢見ること、それは全体としてみれば、夢見る人の早期の諸事情への一片の退行である。つまり夢は、夢見る人の幼年期の再生であり、幼年期に支配的であった諸欲動の蠢きや、当時手に入れることのできた表現方法の再生ではなかろうか。この個人の幼年期の背後にまで進めば、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が垣間みられる。一人一人の個人は、実際には人類の発展の、偶然の生命環境に影響された縮小的な反復である。われわれは、夢の中には『一片の蒼古的人間性がはたらき続けており、そこには人はもはや直接に到達することはできない』というF・ニーチェの言葉がいかに的を得ているかを感じとることができる。そしてわれわれは、夢の分析によって人間の太古的遺産を識るに至り、人間における心的に生得的なものを認識することができるであろうと期待するようになる。夢と神経症とは、われわれがこれまで推測し得たよりもさらに多くのものを、心的な古代から引き継いでいるようであり、それゆえ精神分析は、人間性の始源のもっとも古くもっとも暗い段階を再構成しようと努める諸学問のうちにあって、高い位を要求してよいと思われる。(フロイト『夢判断』)

一部、インターネット上から「モーセと一神教」における「記憶痕跡の遺伝」をめぐる引用にめぐりあったので、それもここに示す(上の『夢判断』の文章も同じ「フロイト的省察」というブログ執筆者の方の「フロイトとエピジェネティクス?」という記事からである)。

われわれは長いあいだ、先祖によって体験された事柄に関する記憶痕跡の遺伝という事態は、直接的な伝達や実例による教育の影響がなくても、疑問の予知なく起こっているかのように見なしてきたと告白しなければならない。[……]確かに、われわれの意見は、後天的に獲得された性質の子孫への遺伝に関して何事をも知ろうとしない生物学の現在の見解によって、通用しにくくなっている。しかし、それにもかかわらず、生物学の発展は後天的に獲得されたものの遺伝という要因を無視しては起こりえないという見解を、われわれは、控え目に考えても認めざるをえない。(『モーセと一神教』)

さて、ここで柄谷行人による、ラカンを引用しつつの言語論ーーしかも丸山真男の「歴史的の古層」概念にも言及しつつのーーを掲げることにする。

 実際、丸山は『日本の思想』のあと、1972年に「歴史意識の古層」という論文を発表しています。これは『日本の思想』の今あげたような問題、神道とか思想の座標軸がないといった話を、古代に遡行して考えようとしたものです。彼はそれを『古事記』の分析を通して行ないました。そのとき、彼が「古層」に見出したのは、意識的な作為・制作に対して自然的な生成を優位におく思考です。古層とは、一種の集合的な無意識です。しかし、彼は「歴史意識の古層」という概念を、それ以上理論的に裏づけようとしていません。

 一方、その当時流行っていたのは河合隼雄の日本文化論ですね。「母性社会日本の病理」といった本がそうなのですが、この人はユング派ですから、当然集合無意識みたいなものを実在しているかのごとく扱います。そして、このようにいう。《西洋人の場合は、意識の中心に自我が存在し、それによって整合性をもつが、それが心の底にある自己とつながりをもつ。これに対して、日本人のほうは、意識と無意識の境界も定かではなく、意識の構造も、むしろ無意識内に存在する自己を中心として形成されるので、それ自身、中心をもつのかどうかも疑わしいのである》(『母性社会日本の病理』)。

 しかし、私はこのように集合的無意識を何か実在のように扱うことを、疑わしく思います。ある日本人の個人を精神分析することはできますが、「日本人の精神分析」は可能だろうか。可能だとしたら、いかにしてか。ユングの場合、集合無意識という概念をもってくるから、それは可能です。では、フロイトはどうか。彼は集団心理学と個人心理学の関係について非常に慎重に考えています。彼の考えでは個人心理なんてものはない、それはすでにある意味で集団心理だから。彼はまた、個人心理と別に想定されるような集団心理(ル・ボン)のようなものを否定する。では、個人において集団的なものがどのように伝わるのか。それに関しては、どうもはっきりしないのです。例えば、個体発生は系統発生を繰り返すという説をもってきたり、過去の人類の経験が祭式などを通して伝えられる、とか、いろんなことをいうのですが、はっきりしない。

 ところが、ラカンはそのような問題をクリアしたと思います。それは彼が無意識の問題を根本的に言語から考えようとしたからです。言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。

 このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。もちろん、言語といっても、つぎの点に注意すべきです。たとえば、日本人・日本文化の特徴を、日本語の文法的性格に求める人がいます。日本語には主語がない、だから、日本人には主体がない、というような。しかし、それなら、同じアルタイ系言語である言語をもち、同じ中国の周辺国家である韓国ではどうなのか。不思議なことに、日本文化を言語から考察する論者は、誰もそれを問題にしないのです。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」


ーーというわけでメモであり、いまはたいしたことをいうつもりはない。

ここで生れる当面の(取り合えずの)問いは、われわれに「太古の遺産」というものがあるにして、それはラカンのいうように「言語」だけだろうかというものだ。そもそも柄谷行人の説くラカンの「言語」とは、象徴界のレベルの話のみが強調されすぎているように思える。無意識は言語のように構造化されている場合もあるし、そうではない無意識もある。ラカン派的にいえば二種類の無意識があるのだ(参照:二つの主体(二つの無意識)をめぐる)。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30ーーラカンのオーラ

柄谷行人はこの後期ラカンの話を外しているように思われる。

他方、フロイトの「太古の遺産」や中井久夫の説く「言語の深部構造」とは、象徴界ではなく現実界の審級のレベルの話ではないか。そして上に引用したように、ラカンが現実界のレベルの話を考慮していなかったはずはない。

「lalangueララング」、ーー《lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができる》(ラカン)--とは、中井久夫のいう《音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋から舌筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発生筋群の運動感覚》の話である。

lalangueとはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望…を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(荻本芳信セミネール『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74

象徴界/現実界とは、中井久夫の文を再掲すれば、エディプス期以後/以前(成人言語以前)のことでもある。ここでは想像界の話は割愛する、そもそも「想像界は、つねにーすでに、象徴界によって構造化されている」(ラカン)。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。

象徴界/現実界の話をとりあえず外すにしても、「言語の深部構造」は、現在の研究では、《ユーラシア大陸の言語のd構造は共通である》とされつつ、それへの反論もある。とすれば、たとえば日本文化独自の「太古の遺産」というものがあるのだろうか、という問いも生れる。

日本語は本質的に「敬語的」と言ったのは時枝誠記であった。あるいは、

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収ーー日本語と下からの目線

《この列島の文化は曖昧模糊として春のよう》(中井久夫)である、--これは日本語使用によるわれわれの避けがたい文化的アイデンティティのようなものではないか。稀有な作家たちだけがそれから免れている。プルーストは、「美しい書物は一種の外国語で書かれている」として、ドゥルーズはそれに説明を加えたが、何度も引用しているので、ここでは、わが国の批評家蓮實重彦の言葉を引こう。

蓮實)……文学に何かの意味があるなら、それは、作品というものが、それが書かれている国の言葉を外国語へと変容させるということにつきているわけです。優れた日本の小説や詩は、日本語を外国語にしてしまうものでしょう。それは、規範としての言語に忠実であるか、それを侵犯するかといった問題ではない。定住したって絶対外国人になれるように、文法や意味論的な体系を忠実に守ったって、日本語を外国語にしてしまうことはできるんです。そして、批評は、絶対外国人による外国語としての日本語の肯定にあるものだ思う。

ただ、われわれは朝から晩まで絶対外国人をやっていることはできない。また、そんな必要もない。ごく普通の日本人として日本なり外国なりを律儀に分析していっこうかまわないでしょう。(『闘争のエチカ』P131)

 さて、日本語は本質的に「敬語的」の話に戻る。

私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。(……)二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。(……)肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。(……)本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。(……)親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。(……)肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森有正全集12 P64-65) 

ーーとの問いは、今でも何度もくり返される。たとえば作家古井由吉はこう言っている。

・一人称の問題があると。それは当然二人称、三人称との関連になります。そうすると、歴史の問題じゃないかと思うわけね。その言語圏がどういう闘争を経てきたかという、それによるんじゃないかしら。

・日本の中世近世からずっと見ると、それほど強い内部的な抗争は経てないというふうに思える。とにかく自他の区別をはっきりしないと、どうつけこまれるかわかりゃしないっていうような、そういうことが少なかったんでしょうね。その中で文章が丸く完成していった。

・で、近代に入ってからも、どっちかっていうと集団でふるまうでしょ。だからひょっとして「私」っていう立場が歴史的に薄いんじゃないか。それが今も続いて、お陰さまで経済成長が楽に行ったということになるか(笑)

・これからどうするんだろうね。僕なんかもう残りの年が少ないから、もういいやと思っているけど、若い人はどうするんだろう。主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010初夏)