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2015年2月8日日曜日

汝安息日を忘るべからず。買い物はその日に一挙に行うべし

英語で書かかれた私の最初の著書のうちの一冊が出版される間際のことだった。出版社は、すべての引用文献を悪名高い、著者-出版年方式で示すように言ってきた。この方式は、本文中には引用文献の著者名と出版年と頁数を記載するだけで、完全な引用文献目録は巻末にアルファベット順で載せるというやり方である。私は出版者に仕返しをしようと思い、聖書からの引用についてもこの方式に従った。巻末の文献目録には次のように記載した。「キリスト、イエス、三三年。『演説と意見集』 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ編集、イエルサレム」。本文中には、「(この悪という概念については、キリスト、三三年における興味深い見解も見よ)」などと書いた。冒涜的な悪ふざけだと言ってこれを拒否した出版社は、こうしたやり方は根本的にキリスト教的なのだという私の反論をまったく理解しなかった。キリストが普通の人間である二人の盗賊にはさまれて十字架にかけられたのと同様に、私はキリストーー神自身――を完全に人間として、われわれと同様の人間(著者)として扱ったのだ。キリストは、宗教史上最初にして唯一の、完全にありきたりな神である。キリストは完全に人間であり、ほかの普通の人間と区別できないーーキリストを特殊な事例とするような、目に見える身体上の特徴は何もないのだ。だから、マルセル・デュシャンの便器(『泉』)や自転車が芸術作品であるのは、それらに固有の特質のためではなく、作品が置かれた場所のためであるのと同様に、キリストは固有の神的特質のために神であるのではないーーキリストに(奇蹟や復活に見られるような)神的特質がそなわっているのは、キリストが神の息子であるから、神の息子という象徴的な場所を占めているからなのである。キリスト教の企ての中心には、悲劇から疑似喜劇への移行のようなものがある。というのも、キリストは威厳のある英雄的な主人の形象ではまったくないのだから。

これと同様の理由から、善良なキリスト教徒はみな、エドワード・モーザーの『政治的に公正な(ポリティカルコレクトな)聖書入門』のようなパロディに腹を立てる必要がないばかりか、それを無邪気に楽しむべきである、ということになるのだ。この愉快な本に問題があるとしたら、聖書の威厳に満ちた有名な言葉で始まり、完全に現代風のひねりを加えてオチになるというお決まりのパターン(これは、フランス革命によって保証された人権が、市場交換によって成り立つ現実の生活でいかに機能しているか、ということに関するマルクスの有名な警句、「自由、平等、ベンサム」に倣ったものだ)をやや使いすぎているという点だ。「死の影の谷を歩みても、悪を恐れることなし。『悪』、『善』ともに論理的構成物にすぎざればなり」。「彼の人々よろずの国の言葉で語り出しが、各々の耳に入りし言葉は母国語のごとく聞こえし。これバイリンガル教育プログラムの成果なり」。こうした書き換えは、モーザーが十戒を「十薦」へと再定式化するときに頂点に達するーー二つの例を引けば十分だろう。「汝安息日を忘るべからず。買い物はその日に一挙に行うべし」。「汝神の名をみだりに口にあぐべからず。楽しげに口にあぐべし。汝ギャングスタ・ラップのシンガーならばとりわけそうすべし」(T Edward P. Moser The Politically Correct Guide to the Bible)。(ジジェク「メランコリーと行為」鈴木英明訳 『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)



◆されど同じ安息日の夕べに BWV 42
Am Abend aber desselbigen Sabbats

(ストローブ&ユイレ アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記より)





◆Bach - St. John Passion BWV 245 (Masaaki Suzuki, 2000) - 8/12

「急げ、お前たち悩める魂よ Eilt, ihr angefochtnen Seelen」

ーー“Wohin? どこへ?” 

ーー買い物へ!





独唱:急げ、お前たち悩める魂よ、
逃れよ、お前たちの苦しみの洞窟から、
急いで行け---
合唱:どこへ?
独唱:---ゴルゴダへ!
信仰の翼をもって、
逃れ行け----
合唱:どこへ?
独唱:---十字架の丘へと!
お前たちの幸せはそこでこそ花咲くのだ!

ーー24曲「Eilt, ihr angefochtnen Seelen 急げ、お前たち悩める魂よ