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2015年2月22日日曜日

まったく不快のない快適な日々が続いたら、〈あなた〉は「幸福」だろうか?

どの享楽の断念も、断念することの享楽を生み出す。どの欲望の障碍も障碍への欲望を生み出す。

every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

《私が最後にもう一度繰り返すならばこうである、--人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と》

ニーチェの真の主著『道徳の系譜』はこう終わる。といってもジジェクの文と並べてみはしたが、これは何か関係があるのだろうか? たまたま思い浮かんだだけではないか? それはこの際どうでもよろしい。ただこうだけ書いておこう。

ーーどの愛の断念も、断念することの愛を生む。

《彼女にはそこに義務があった。(……)それはたんなる仕事ではなかった。そこには彼女の心がこもっていた。しかも奥深く。それが彼女が本当に願っていたことだった。(……)看護婦ラングトリーはふたたび歩きはじめた。颯爽と、恐れることなく、彼女はついに自分自身を理解した。そして、義務こそ、最も淫らな強迫観念であり、愛の別名であることを理解した》。(コリーン・マッカロウ『淫らな強迫観念』)

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』ーー「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子)より)

ーー《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。

when you are thinking that you are doing your duty for the sake of duty, secretly we know you are doing it for some private perverse enjoyment.The disinterested point of the law is a fake, as there are private pathologies behind them. The proverbial example is that of the teacher who terrorizes his pupils out of a sense of duty, for their own good, but secretly he enjoys terrorizing pupils. (『ジジェク自身によるジジェク』)

〈あなた〉は、「正義」やら「理念」やらのためにいきり立っているわけではない、と反発する。ただ不快のせいだと。そう、たとえばここで次の文章を抜き出してもよい。

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』

だがそうであっても〈わたくし〉は知っている。不快な出来事を「権力への意志」の発露のための刺激剤としていることを。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

まったく不快のない快適な日々が続いたら、〈あなた〉は「幸福」だろうか?

厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話〔エピソード〕的な現象としてしか存在しえない。快感原則が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快感は与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか強烈な快感を味わえないように作られているのだ。(註)

註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。(フロイト『文化への不満』人文書院 フロイト著作集3 P441)

ところで、「強い」人間、器量の大きな人間、愛の器も攻撃欲動の器も大きい人間、彼から愛された〈あなた〉が他人から危害を蒙ることがあったのなら、その他人を叩きのめす力をもっている人間、ーーいったい女は、この他人を叩きのめすことができない男を真に愛するだろうかーーすなわち、《君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する》(ツァラトゥストラ)の「君」であるような強い人間、そんな彼がとりわけ不快に陥るのはどんな場合だろうか。それは受動的な立場に置かれることである。どうして強い人間が受け身の状態に置かれて耐えられるだろう? もっとも現代では「善良」な人間ばかりが跳梁跋扈しているが。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

たとえば受動的な立場とは、政治の客体となることだ。

「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(ブレヒト『政治・社会論集』)

そう、どうやって土足でやってきた「政治」に知らんぷりができるだろう、器の大きな〈あなた〉が。

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)

とはいえ、《みにくさは、たやすく美しくなるような顔立ちにおいて、いっそうよく目立つ》ように、《生まれつきよく出来た人といわれている人間は、自己統御をまったく怠ると、最悪のところまで、しかもひとより早く達することが、しばしばある》(アラン)

強い人間にもラカンの〈幻想の横断traversée du fantasme〉ーーフロイトの〈徹底操作working throughーdurcharbeiten〉は欠かせない。

……幻想の横断traversée du fantasmeの問い(ひとびとの享楽を組織する幻想的な枠組みから最小限の距離をとるにはどうしたらいいのか? その効力を宙吊りにするにはどうしたらいいのか?)は精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、われわれのこの時代、レイシストの高揚が再活性化された、あるいは世界的な反ユダヤ主義のこの時代において、おそらくまた最前線の政治的な問いでもある。伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。

最も重要な課題は、敵を弾劾し打ち負かすことではない。その仕事は容易に、敵がわれわれを把持することを強めてしまう結果に終わる。肝要なのは、われわれを魅了させる(幻想的な)呪縛をどうやって中断させるかということだ。幻想の横断traversée du fantasmeのポイントは、享楽から免れることではない(旧式の左翼の清教徒気質モードのような)。むしろ、幻想にたいして最小限の距離をとるということは、いわば、幻想的な枠組みから享楽を“鉤から外し取る”ということであり、かつまた享楽は、非決定的な、分割的ない残余であることに気づくことである。すなわちそれは、歴史的な慣性の支持をする固有に“反動的”なものでもなく、かつまた既存の秩序の束縛を掘り崩す解放的な勢力でもないのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)

 〈あなた〉は、自らの攻撃欲動、死の欲動、権力への意志、ここでは正確な定義を試みるなどという大それたことをしないで、一緒くたに並べるが、ーーそれは不遜ながらフロイトが『マゾヒズムの経済的問題』でやった並べ方と同様である、《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志 Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht》ーー、これらの発露の機会を虎視眈々と窺い、その機会が訪れたならば、それを楽しんでいるのではないか。

ジジェクの云う《享楽を鉤から外し取る》とは、まずは、自らの楽しみ(享楽)に気づき、そこから最小限の距離をとることだ。なにも己れの攻撃欲動の過剰さを否定する必要はない。もっともらしく善人ぶって己れの権力欲を否定してもなにも始まらない。

ましてや攻撃欲動を己れに反転させて「良心の疚しさ」などを覚える必要など毛頭ない。

外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。(……)粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』--ニーチェ派とルソー派

ーーとはいえ「毛頭ない」のだろうか? 器量の大きな〈あなた〉の力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる必要はないのか。

まあそれはこの際問わないことにしておこう。ただ〈あなた〉は君主のような人物だとだけしておこう。君主だと? いやシツレイ! 君主にもいろいろな君主がいる、土人の国の王様のようなわが天皇陛下のようではなく、ボルジアのような君主だとしておこう。

あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)

さて、なんの話だったか。引用すると、最近は話の接ぎ穂が混乱してしまう。やはり脳軟化症気味なのだろうか。すくなくとも固有名詞を忘れることがひどく多くなった。つい最近は馴れ親しんだプルーストの小説の登場人物の名前(ベルゴット)が一時間ほどでて来なくて呆然とした、ーーそうだ、権力欲の話だ。EVERNOTEの引き出しを「権力欲」で探ってみることにする。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)

ところで、わたくしが今こう書いているのも、差別欲望、あるいは権力欲の一種ではないのか。すくなくとも他人との差異を際立たせようとする試みであるには相違ない。

人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(ヘーゲル=岩井克人 ───岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より)