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2015年2月21日土曜日

「理解」することは「許す」こと

半月ほどまえに書いた文章だが、投稿せずのままのものである(そもそもこの類の下書きが30ほどあり、かつまたWordには下書きの下書きとでもいうべきものが、これも20ほどある)。なにか別のことをつけ加えようと思っていたのだが、なんだったか思い出せない(それは初老による脳軟化症のせいかもしれない)。というわけで、そのまま投稿する。

…………

イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である。(ピエール=アンドレ・タギエフーージジェク『ポストモダンの共産主義』からの孫引き

ピエール=アンドレ・タギエフとは、他にどんなことを言っているのかをいくらか探ってみたおりにめぐり合った丸岡高弘氏の「フランスにおける反人種差別主義的ディスクールの危機」から抜粋してみる。

タギエフはまたテロや暴力やさまざまな社会的逸脱行為の原因を解明しようとする努力がそれらを容認することに転換しやすいという点についてもフィンケルクロートとその危倶を共有する。彼等にとってこの問題について「理解」することは「許す」ことなのである。タギエフによればフランスの知的エリート達は国家が形成される前のナショナリズムを民族自決運動として手放しで承認するために,テロリズムまでも容認してしまう。パレスチナ人は特権的な犠牲者となり,他の犠牲者の存在は顧みられず,テロをうみだす原因(シオニズム)ばかりに注目が集められる。だから極左のひとびとの聞では,テロリズムはアメリカ帝国主義の産物だという転倒した議論がされてしまう。「こんなふうに暴力行為を説明し理解しようとすることはそれを正当化することと等しい 。


冒頭のタギエフの文章それ自体が、イスラム教を理解しようとするものであるかに見えてしまうところがあるが、ここでは素直にタギエフやフィンケルクロートの主張(丸岡高弘氏の論は、フィンケルクロート論である)に従おう、このところパレスチナやらイスラム国などをめぐってメモしてきた自らを諌め、軌道修正のためにも。

……われわれが避けねばならぬのは,「理解するよう努める」ということの罠である.つまり,ボスニア紛争が神秘化される主要な理由は,誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある.そういった態度の紋切り型の一つに従えば,「何が起きているかを説明しようとすれば,少なくとも過去 500年の歴史,様々な戦争と宗教的,民族的等々の争いのあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが,情勢の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば,バルカンに注がれる疑似人類学的眼差し,つまりはファンタスムの場としてのバルカンに対して西欧の観察者が保っている距離を維持することに貢献するのである.言い換えるなら,旧ユーゴスラヴィアでの出来事が証明しているのは,「理解することは許すことだ」というお定まりの知恵がもつ愚劣さなのだ.為さねばならぬのは,まさにその逆のことである.ポスト =ユーゴスラヴィア戦争に関しては,いわば逆転した現象学的還元を行ない,われわれに状況を「理解する」ことを許す夥しい過去の亡霊,意味の多様性を括弧に入れなければならない.「理解する」ことの誘惑にあらがい, TVの音を切ることと同じようなことを行なわなければならない.するとどうだ,声の支えを失ったブラウン管上の人物の動きは,意味のない馬鹿げた仕草に見えるではないか …….「理解力」のこのような一時的宙吊りを行なうことで初めて,ポスト =ユーゴスラヴィア危機において政治的,経済的,イデオロギー的に問題となっているもの,すなわち,この戦争を導いた政治的計算と戦略的諸決定の分析が可能になるのである.ジジェク『アンダーグラウンド 』

この文自体、いかようにも読めるだろうが、たとえば、理解しようとしている巷間の「にわか識者」ーーそれは名の知れた評論家のたぐいももちろん含まれるーー、彼らが「僕は理解力の宙吊りを行なったあとで分析しているのだ」などと言い逃れる文章としても使われてしまう可能性があるのではないか。そしてジジェク自身だって「解釈」やら「理解」ばかりしているではないか! と何処かからきこえてきそうだ。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

ただし、わたくし自身はどうあっても、たとえばイスラムやユダヤ問題、あるいはパレスチナ問題について、宙吊りなどしていると言い募る自信はない。このところようやくいささか調べてみただけなのだから。

そしてブログならまだしも、ツイッターというのはどうしても脊髄反射的な書き込みになりがちだ。あれはひとをいっそう阿呆にする装置ではないか。

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

せめて苛立ちは、《ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない》ようにしたいものだ。

さて上に引用したジジェクの文の、ジジェク自身による解釈のような文章を掲げよう、そこには「似非能動性」という言葉がある。ツイッターとは似非能動性の装置である。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p54)

 どうだろうか、〈あなた〉は、事件がある度に、なにかを言わざるを得ない気分になることがないか。他人と同調しつつ、ある人物へ悪口をいうことが公認された義務のような感覚に襲われることはないか。《……公衆の面前で悪しざまに罵倒することができる数少ない公的存在として、世間が○○を選んでしまったのである》(蓮實重彦)

そう、この○○にはいろんな固有名詞が入ることだろう。そして○○に、折りある毎になにかの名を代入しつつ騒ぎ立てる、ツイッター上の振舞いを、ファシズムと呼ぶ。

あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト『文学の記号学』)

いや罵倒だけではない。「表現の自由」の擁護の無限連鎖! ーーつい最近もあったではないか。あれはファシズムではないのか。ある「真理」やら「理念」を一歩間違って狂信的に扱えば、集団神経症が生れる。

さてこうやって書いてくれば、表題の《「理解」することは「許す」こと》に全く反する文章が「意図せずに」、浮んで来ることになる。

スピノザは、身体からくる受動感情(情念)を”意志”によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。

《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』)。これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。

受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる》(『エチカ』)。

つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。この場合、彼は感情のみについて語っているけれども、「受動性」はすべての「意識」についてあてはまる。真理の意識さえでも表象であり、受動性においてある。真理としてのイデオロギーを越えるのは、いつも別の真理のイデオロギーである。

こ こで、すでに示唆してきたように、いくつかの疑問が生じる。それは先ず、真理の意識そのものを表象とみなす「観念」は、それ自体意識ではないのか、ということだ。これはつぎのようにもいいかえられる。われわれが自然史のなかにあり、受動性=表象のなかにあって、それを超越しうるという考えそのものが表象に すぎないとするならば、そのようにいうこと自体は超越なのではないか、と。あるいは、個としての主体を受動的な表象とみなすとき、なおそれをそのようにみ なす主体があるのではないか、と。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

さあて、オスキナヨウニ! 読み手しだいである。〈あなたがた〉は、それぞれいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのであるから、己れの都合のよいように解釈したらよろしい!

ところで、このわたくしは、なぜ〈あなた〉とか〈あなたがた〉などという二人称単数やら複数の代名詞を使っていま書いているのだろう? それはひょっとして、なにか悪意の意図があるのではないか。

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病(パラノイア)を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

そう、もちろんナイーヴな読み手をパラノイア化させる意図があるに相違ない。

いやひょっとしてこっち系かもしれない。

@Cioran_Jp: 街に出て人間どもを目にすると、まっさきに思いつくのは「皆殺し」という言葉だ。(シオラン『四つ裂きの刑』)

「おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で
ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ

ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」より『世間シラズ』所収

なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。(中上健次『鳥のように獣のように』)

…………

加藤周一は、《理解するとは、分類することである》とする。そして《愛するとは、分類を拒むことである》とも。

理解するとは、分類することである。一人の女が他の女に似ている点に注目する(「スイもアマイもかみわけた」見方は、そうでなければ、成立しないだろう)。あるいは、一人の男がもう一人の男に似ている点に(「男はみんなこういうものだ」)。しかし愛するとは、分類を拒むことである。その女を愛するのは、他の誰にも似ていないから、つまりかけ替えがないからである(「オレとオマエの仲だもの……」)。故に理解の内容は、社会的であって―――社会的でない理解はそもそも成立しない―――、愛の内容は、本来非社会的であり、純粋に私的であり、余人に伝え難い。

しかし恋人たちの感情もゆれ動くだろう。ある時の感情が、次の瞬間に、どう変わってゆくのか、たしかな保証はない。相手の心理を忖度しても然り、自分自身の気分を省みてもなおかつ然り。みずからそこにたしかな持続をもとめ、拠りどころを築き、全く衝動的ではない一聯の行動の動機をそこから抽きだすためには、それが「愛」であるとか「恋」であるとかみずからいうほかない。しかるに「愛」にしても「恋」にしても、何かを名づけ、何かをいうためには、言葉を用いざるをえない。しかるに言葉は決して純粋に私的ではなく、社会的なものである。いうことは、社会化することであり、余人を私的空間に引き込むことである。どうすれば余人に伝え難いことを余人に伝えることができるだろうか。

別の言葉でいえば、非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的対象の個別性=かけ替えのなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊な時と特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を越えての意識に対し―――それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと―――、到達可能なものにするためには、どういう手段を用いることができるだろうか。その手段は芸術的表現である。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

すなわち愛するとは、理解を拒むことであるといってよいだろう。精神分析的にも、愛するとは「無意識」の心的領域によって起こるものであり、なかんずく対象aにかかわるのだから。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

だから、出会い系、--なんというのだったか? 日本での結婚相手探しのコンパ、あれは自分を商品として提示するという意味で、いかにもなんでも商品化の時代、「新自由主義」的風潮のひとつであろうだろうがーー、破廉恥な反−愛の装置である。

感情的諸関係に関わる過程でさえ、ますます市場関係の流れに即して組織されるようになっている。そうした手続きは自己の商品化に基づいている。インターネットの出会い系や婚活の代理店にとって、出会いや結婚相手を求める人びとは、その品質を列挙し、写真を掲載することに見られるように、自分自身を商品として提示しているのである。ここで見失われていることは、自分に即座に好意をもってくれるようにしてくれたり、自分以外を即座に嫌いにしてくれる特異な魅力を指す、フロイトのいわゆる1本の線 der einzige Zug である。愛は必然性として経験される1箇の選択である。ある点で、人間は、すでに愛しており、他にはどうしようもないという感情に襲われる。定義的に言えば、したがって、それぞれの候補者の品質を比較し、誰と恋に落ちるのかを決意するといったことは、すでに愛ではありえない。だからこそ、出会い系は優れて反−愛の装置である。(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

愛することは理解を拒むことであるのなら、では憎むことはどうだろう(たとえばテロ行為を憎む)。

フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

悪党は、――「公式的には」、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれている、ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と。なぜ〈あなた〉はホラー映画を観るのか、一度でも己れに問うてみたことがあるだろうか?

いや、やめておこう、このように安易に抜き出してしまえば、また「理解することは許すこと」になりがちだから。あるいはこれでさえも場合によっては、集団神経症という「宗教」を生みがちになるだろう。

フロイトによれば国家も宗教である。日本人なんたら、あるいは「国家とは国民を守る義務がある」やらの寝言をリツイートしつつ騒ぎ立てる〈あなたたち〉は典型的な集団神経症に罹っているのではないだろうか。

国家とは外部があるとき現われる、たとえば戦争によって、とか、国家=暴力=警察やら、国家とは収奪装置であるといったのは誰であったか。いやいや理解しない種族は、国家とは国民を守ってくれるものと思い込んでいればよろしい。

なんの話だったか、--。

いずれにせよ、ただここではひたすら、憎むことは、理解を拒むことだ、とだけしておこう。そして、これでよいのだろうか、われわれは。

第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))

「イスラム国」の連中を「理解を超えた悪魔」としているだけでよいのだろうか。