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2015年2月20日金曜日

ラカン派の「記号」と「シニフィアン」

《記号とは、つねにある固定された意味を示す。赤信号は「停まれ!」の意味である。シニフィアンとは、底に横たわる絶え間なく変化するシニフィエを示す。結果として固定された意味について語るのは困難である。意味は、この個別のシニフィアンが使用される、より大きな言語学的かつ社会文化的なコンテクストによって決定される。》(ポール・ヴェルハーゲ)

医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

ラカン派の臨床医ポール・ヴェルハーゲであり、この「記号」と「シニフィアン」の意味づけは、かならずしも一般的ではないかもしれない。だが、この二つの語の定義をめぐる消息にはわたくしは詳しくない。

ここでは、ラカンの60年代初頭の捉え方のみを復習しておくことにする。セミネールⅨ「同一化」L'identification (S IX), 1961-1962からである(向井雅明試訳 東京精神分析サークル)。

…………

同一化について語るときまず考えるのは、同一化する相手としての他者であって、そこからすぐに小文字の他者と大文字の他者の違いについて考えるための扉が開かれているということである。この違いはみなさんにとってもう親しみ深いものであろう。
……われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。

ラカンはここで何を言っているのか? ーー「俺は俺だよ」、「アタシはアタシよ」、われわれも時にこのように友や親などに言い放つだろう。だが、これは俺=俺でないために、そういうのだ。

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」が意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)

ーーこのジジェクの話は、セミネールⅨではなく、セミネールⅩⅦを、おそらく基礎においており、ややここでの文脈からは外れるが、参考として引用しておいた。


さて、もとに戻れば、「俺は俺だ」というときの、この「俺」はシニフィアンであり、記号ではない。

シニフィアン”私”は自分自身のアイデンティティに錯覚をあたえるものである。

……the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own.(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。

the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"ーー「心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ」より)

もっとも〈私〉という代名詞は、主人のシニフィアンであるという議論ではなく、想像界を発動させるものという理解がかねてはしばしばなされたし、この考え方は、今でもある側面では充分に通用するだろう(上のジジェクの文における「自己」でさえ、そのレベルで読むことができる)。

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病(パラノイア)を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

いやむしろシニフィアンに過ぎない〈私〉を、人はイマジネールな領野に転化して読んでしまう。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ーーバルトはしきりにこの類のことをくり返すのだが、世間の悪習は容易に変わるものではない。

彼にとって、自分自身の《イメージ》はどれもこれも耐えがたく、名づけられることは苦痛である。人間的なかかわりあいを完全なものにするためには、イメージを欠落させることが肝要だと彼は思っている。すなわち、人間同士のあいだで、互いに《形容詞》を廃棄することが大切なのだ。形容詞化されてしまうようなかかわりあいは、イメージの領域に属し、支配と死の領域に属する。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ーーこれ以外も、「レッテル貼りとフライド・ポテト化」を見よ。


ラカンは、エピメニデスの《「すべてのクレタ人はうそつきである」とクレタ人は言った》に言及しつつ、「俺は~を思う」の類の発話を、「彼女は俺を愛していると俺は思う」と言っているに過ぎないとさえと説いている。

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら……、それは「私は考えていると思っている」という意味…これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(『同一化』セミネール)

ツイッターなどで一人称単数代名詞を多用する輩の発話に不快感を覚えたとき、このラカンのロジックを適用して読んでみると愉快になり、人生が生き易くなること間違いなし。「俺の見解では → 恋人の見解では」、「私は気にしない → 愛人は気にしない」……。


ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別とは、 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してないということだ。

私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェクーーソクラテスのイロニーとプロソポピーア

いずれにせよ、たとえば蓮實重彦が次ぎのように書くとき、ラカン派的に言えば、それは象徴界のレベルの話をしている。

「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその指示対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

 転位語、すなわち転換子(シフター)である。

例えば、「私は優しい人間だ」という文章を発話したとする。これは私の「自我」が「優しい」という性質をもっていると発話するディスクールである。そのため、「優しい人間だ」と発話する「私」という言葉は転換子として、主体を指示はするが、主体を意味することはできない(Lacan E800)。このディスクールの次元は言表[enonce]の次元であり、転換子である「私」は、この自我のディスクールのメッセージに対して言及しているコード(メタ言語的なもの)である。

要はシフターとは、ラカン派的にはシニフィアンである。


In a concern for method, we can try to begin here with the strictly linguistic definition of / as signifier, where it is nothing but the shifter* or indicative that, qua grammatical subject of the statement, designates the subject insofar as he is currently speaking. That is to say, it designates the enunciating subject, but does not signify him. This is obvious from the fact that there may be no signifier of the enunciating subject in the statement—not to mention that there are signifiers that differ from I, and not only those that are inadequately called cases of the first person singular, even if we add that it can be lodged in the plural invocation or even in the Self [Soi] of auto-suggestion. (E.800 LACAN ECRITS TRANSLATED BY BRUCE FINK)

ここにある”enunciating subject in the statement”のstatementとは「言表内容 enonce」のことである。「言表内容 enonce」とは、実際に話された言葉(意味内容)であり、「言表行為 enonciation」はその言葉を発言する行為のことである。人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう、言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差を語っているのは言うまでもない。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)


◆ヤコブソンの コミュニケーションの六機能図式


だが〈私〉は、ただのシニフィアンではなく、時と場合によって、主人のシニフィアンでありうる。

ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。

どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。

”なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)


とはいえ、こういういささか厄介な話を好まない人は、ただニーチェの命令する〈私〉と服従する〈私〉を思い出しておけばよろしい。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』湯浅博雄訳)

あるいは「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”(フロイト)とだけ思い起しておけばよろしい。だが巷間の社会学者やらフェミニストやら、ーー標準的な「学者」もそうだろうがーー、あの輩たち、どうやら未だ、これさえ知りたくないような「確信者」ばかりが棲息している気がしてならない。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

だがあまり他人のことは言えないので、ここでは中井久夫のすぐれたエリオット超訳を示して自戒しておくことにする。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実very much realityには堪えられない」となり、中井久夫の「超訳」とすることができるが、エリオットの『四つの四重奏』の「エピグラフ」に、ヘラクレイトスの《most people live as if they had a wisdom of their own.》とあり、この訳である、とすることもできる。

ーーとすれば中井久夫の永遠の恋人、神谷美恵子訳のマルクス・アウレリウスの言葉を想起することにもなる。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

…………

さて「同一化セミネール」に戻る。

《まずいっておくが、シニフィアンは記号ではない。われわれが取り組もうとしているのはこの区別に厳密な定義を与えることである》(ラカン)

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。

小文字の他者/大文字の他者との同一化は、想像的同一化/象徴的同一化(シニフィアン的同一化)である。

『一般言語学講義』の中でソシュールはシニフィアンの輪郭をはっきりさせることによって同一化の機能を究明しようとする。そして同一化に関するひとつの重要なイメージ、10時15分の急行の例、を出す。10時15分の急行といったときその同一性ははっきり定義されている。それは物質的素材の観点からは明らかに異なった急行であるにもかかわらず、それは毎日同じ時間に出発するやはり同じ10時15分の急行である。10時15分の急行のような存在が成立するには語られた存在を通して現実界の中への大々的なシニフィアン的組織の連鎖の介入を前提としているのである。これはシニフィアン的同一化としての同一化の法を例証してくれるものである。

われわれに思考にとってひとつの支えとなるような対立項を出しておこう。それは想像的同一化に対立するシニフィアン的同一化である。想像的同一化については鏡像段階は生けにある同種類の存在、似ているものという意味での同類のイメージの器質的効果と呼べるものによって示した。それは自然博物史のいくつかの点で見ることができる同化の効果で、私がよく挙げる例に、エジプトツチイナゴという虫の形態の変化がある。この虫の容貌、毛などの表皮性物質の総体の出現、発達は、この虫の発達段階、幼虫の変化のどの時期にこの虫が他の虫と出会うかに依存している。この虫が出会う同類の虫のイメージの特徴によって、この虫が単独型形態になるか群生型形態になるかが変わるのである。

要するに、動物は話す(=パロール)。だが、シニフィアンを使うことはない。パロールは想像界のレベルの発話であり、シニフィアンは象徴界のレベルにおける使用しかない。すなわち動物に象徴界はない(もちろん、人間には想像界も象徴界もある。かつまた現実界は動物にも人間にもあるだろうが、このセミネールⅨの段階では、現実界についてはおおくは語られていない。かつまたシニフィアンをめぐっては、セミネールⅩⅦにおける転回が重要であるだろうが、いまそれに触れることはしない)。


われわれが、ある一定の条件のもとにある主体に呼びかけるとき、同一化という事実、一種の誤認現象は様々な報告、証言によると限りなくあるということは常に知られてきたことであるし、われわれも確認できることである。

問題なのはどうしてこれらのことが人間存在に起こるのかということである。私の犬とは違って人間存在は、ある動物が出てくるとき、自分の失った人、家族とか、首長あるいは部族のほかの重要人物とかの姿をそこに認めるのである。あの野牛、それは彼だ、というわけである。

……ケルトのある農家の使用人の話からきた民話がある。そこの主人、領主が死んだとき、一匹のハツカネズミが領地を一回りして戻って来、農具のある納屋に入り、鋤、鍬、シャベルなどの農具の上を動き回り、それから消えてしまった。ハツカネズミが何を意味するのかもうわかっていた使用人はこの後、主人の亡霊が現われるのを見て確信を得るのであった。この亡霊は次のように告げる、「私はあの小さなハツカネズミだった。別れを告げるために領地を一周したのだ。農具を見なければならなかったのは、それが他の何にもまして愛着を感じていた大切なものだからだ。一回りしてやっと開放されることができた。等々」

…………


ラカンの犬の話をも抜き出しておこう。


【ジュスティーヌという雌犬】

私の取り巻きの中に、サドに敬意を表してジュスティーヌと名付けた一匹の雌犬がいる。(とはいっても、私がその犬をいじめるわけではない。)この犬は間違いなく話をするのである。この犬が言葉を持っているのは疑い入れない。だが、それだからと言ってこの犬が完全に言語を持っているということにはならない。言語に対して人間的な関係をもつことなしに、パロールを持っているということに関する問いをもとに、前言語的なものについての問題を取り扱うことができる。私の犬が私にとって話をするとき、彼女はいったい何をしているのであろうか。彼女は話をすると言ったが、どうしてであろう。彼女は常に話すわけではない。人間とは違って、彼女は必要なときだけ話すのである。彼女が話す必要を感じるのは、感情が高ぶったとき、私と何人かの人達と関わり合いを持つときである。喉からクンクンという小さな音を出し、ほとんど人間的な調子で表され胸を打つものとなる。ここからこれを取り上げようという考えが浮かんだのである。

これはボクサーの雌犬で、ネアンデルタールのようなほとんど人間的な顔をしている。この顔の上に表れる上唇のある種の震えが人間にしては少し高い鼻面の下に現れるのだが、人間でもこんなタイプの人がいるであろう。それはうちの管理人のおばさんはそっくりで、唇の震えについては、彼女が私に何かを言いたいくてたまらないとき、ほとんどおなじ表現となるのである。(……)

私の犬がパロールを持ってること、このことは疑う余地も、議論の余地もない。自分自身の努力―これはしっかりと分節化され、分解可能で、直接そこに表現できるものである―から生み出されるなきごえの抑揚だけからではなく、この現象が生じる時との相関関係からしてもそうなのである。この現象が起きるのは、われわれが会食をしている時で、経験上会食のいくばくかの残り物は自分のところに来るはずだということがこの犬には分かっているのである。そこでは食べるという欲求だけが問題になっていると考えるのは間違いである。この食べるという要素と関係があるのは間違いないであろうが、そこにいる人達と一緒に食べるという交流の要素もあるのだ。


【動物と人間の話す行為の違い】

結局、この犬がほしいものを得るためには十分なこのパロールの使用法と、人間のパロールとの違いはどこにあるのであろう。この動物の話と、人間が話すということとの間の違いは、驚くべきことに、言葉を話す人間に起こることとは反対に、この犬は私を誰か違う人と取り違えたりは決してしないということである。このことは大変はっきりとしている。この立派な体つきをした、そして私を愛しているこのボクサーの雌犬は、私の前で過剰な情熱に身を任すことがあり、気が小さい人がこわがるような態度をとることがある。耳を伏せて私に飛び掛り、うなったりして私の手首を歯でくわえてかもうとするのだ。でもそれは何でもない。私が何か言うとすぐにおさまるか、何度か繰り返した後やめてしまう。それだからこそ私を愛しているのだと言えるのだ。というのも、彼女は私だということがよく分かっており、誰かと取り違えたりすることは決してないからである。このことは、分析において、いわば純粋な語る主体を相手にすることによって経験上わかることとは逆である。

純粋の語る主体を相手にすることはそれ自体、われわれの経験の誕生そのものを意味することであるのだが、患者は純粋の語る者であることによって、常にわれわれを誰か他の人と取り違えるのである。私が教えることの意味は、患者はわれわれを他の人と取り違えることによって、われわれを大文字の他者Autreの水準に置くのだ、ということを理解することなのである。私が自分の犬に関して言うのはまさにこのことである。この犬にとっては小文字の他者autreしか存在しない。彼女の言語への関係から大文字の他者への道があると考えることはできないのである。


【動物と人間の感情的領域】

……分析の存在以前にはまだ固有のものとして成立していなかった転移能力と呼ばれる可能性が私の犬に欠けているとしても、私が通常の意味で人間関係と呼ぶ感情的領域がこの犬と私自身との関係において縮小されるわけではまったくない。私の犬の行動においても私自身の、たとえば社交界の婦人との間にあるような関係が部分的にはそこにそのままあるということは明らかである。私のベッドの上にこの犬が乗って特権的な場を占めるときにこの犬が私を見つめる目、自分でも完全に特権的な意味を知っているその場所を占めることの栄光と、そこから追い出そうと今にも来る私の指図の動作への恐れの間に宙づりになったときの目は、私が社交界の婦人と呼んだものの目とまったく同じである。それは社交界の婦人がたとえばある映画について熱狂的賛辞与えた後で、彼女が自分の上に、「私はその映画に心底退屈した」という発言が向けられているのを感じる時に見せる同じ目つきなのである。社交界の作法であるnihil mirari[何事にもさりげない顔をする]の観点からすると、このことは、私に最初に話をさせたほうが良かったのではないだろうかという疑念を彼女に持たせるのである。