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2015年1月14日水曜日

「私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ」

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、<物>へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

……my deep distrust of this kind of Heideggerian pathetic style. I have a kind of absolute compulsion to vulgarize things, not in the sense of simplifying them, but in the sense of ruining any pathetic identification of the Thing, which is why I like to jump suddenly from the highest theory to the lowest possible example.

この発言は、ジジェクのスタイルのまさにエッセンスの提示であるかのようである。とはいえジジェクの22歳時の卒論はハイデガーが主題であり、かつてハイデガーにイカレてしまったことの反動としても読めるだろう。ジジェクは「デリダなしでは、私はたぶん終生ハイデガリアンだっただろう。I think that without Derrida I would probably have ended up as a Heideggerian」とさえ言っている。そもそも何度もくり返される強い批判とは、つねになにか隠された理由がある。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

すなわちジジェクの根には、パセティックな、情に動かされ易いナイーヴな心があるに違いない。とはいえここではその面に触れることはしない。

たとえば、彼が「詩に歌われる言語の折檻所――いかにして詩は民族浄化と関係するか」にて、次のように書くとき、詩のパセティックなスタイルへの倦厭、--過去の外傷的記憶、あるいはそれが齎したものへの忸怩たる思いーーから記されているといえる。

・プラトンの評判には傷がついている。詩人どもはポリスから放逐されるべき、と主張したか らだ。――いや、ユーゴスラビア分裂体験を経た今から判断するなら、これはむしろ良識 あるアドバイスだったというべきか。

・「大他者」としての言語は、われ われが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。

実際、われわれも多くの秀れた詩人による「戦争詩」を知ってしまっている。あられの煽動・扇情的な詩に若者たちは高揚して戦地に向かったと言われたりもする。

ここのところ、萩原朔太郎をいささか顕揚したので、その反動として、彼の「戦争詩」を掲げよう。萩原朔太郎が後に自ら「無良心の仕事」と評した「南京陥落の日に」である。

南京陥落の日に
歳まさに暮れんとして
兵士の銃剣は白く光れり。
軍旅の暦は夏秋をすぎ
ゆふべ上海を抜いて百千キロ。
わが行軍の日は憩はず
人馬先に争ひ走りて
輜重は泥濘の道に続けり。
ああこの荒野に戦ふもの
ちかつて皆生帰を期せず
鉄兜きて日に焼けたり。

「東京朝日新聞」昭和12年12月13日

…………

ところで、ロラン・バルトはその最晩年(1979)、シューマンを称え、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナー等)を好む傾向に対し、シューマンの「私」に向かう音楽表現 を「反時代性」の哲学だとしているが、これもパセティックな芸術への不信からだろう。

さてハイデガーには疎いのだが、彼のパセティックな詩の顕揚のあり様とそれへの批判はこのようなものらしい。

(アドルノの「パラタクシス」における、ハイデガーの詩の解釈の批判をめぐって)ヘルダーリンが、「植民地を、そして勇敢な忘却を精神は愛する」と言っているのに、ハイデガーは、より深く母国を愛するために娘の国としての植民地を愛するのだとか、固有のものをよりよくわがものにするために忘却を経由するのだとか、無理無体にねじまげた解釈をする。それは、いかに深いメタフォリカルな解釈かもしれないけど、リテラルに言えば単純に間違っている。一個一個の単語まで厳密に読んでいくことでそういう間違いを暴き、そこにイデオロギー的なバイアスをみる。(浅田彰(『批評空間』1997 Ⅱー12 共同討議「アドルノとアクチュアリティー」(木田元+徳永恂+矢代梓+浅田彰+柄谷行人)

だがハイデガーだけがパセティックではない。たとえばニーチェのスタイルはどうなのか。とりわけ最晩年の『この人を見よ』のあの調子。だがわれわれはそこにユーモアを見ることができる。自らを嘲笑しパロディ化する<力>を見ることができる。それは『ツァラトゥストラ』も同じく。またそれを見ないのなら、--ナイーヴな、あるいはパセティックな読者であるなら充分ありえることだが、ーーニーチェを読んだことにはならないとさえ言いうる。

ユーモアとは「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。自らを笑い飛ばす<力>である。