このブログを検索

2015年1月25日日曜日

仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」

《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》(シラー フロイト『集団心理学と自我の分析』より孫引き
…………

まずラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評したフロイトの『集団心理学と自我の分析』から始める。

偶然に吹き寄せられたような人間の群れの仲間が、心理学的な意味での集団に類したものを形成するには、これらの個人たちが相互に何か共通なもの、つまりある一つの対象にたいする共通の関心とか、ある状況の中で、おなじ方向にむかう感情とか、そして(その結果と私はいいたいが)相互に影響し合うある程度の能力とか、これらのものを共有していることが条件として必要になる。この共通性…が高ければ高いほどそれだけ容易に、個人のあいだから心理学的集団がつくられ、「集団精神」の現れはますます際立ってくる。

さて、集団形成のもっとも顕著で同時にもっとも重要な現象は、個々の成員によびおこされる情緒の昂揚または強化ということである。マックドゥガルによると、人間の情緒は、集団の場合には他の条件のもとではほとんど達することができないほどの高さに昂揚するとみなしてよく、しかも集団に参加した者にとっては、これほど無制限に情熱に身をまかせ、集団に入りこんで、個人的な制限の感じを失うことは快い感覚なのである。このようにして、個人が一体になって集団の中に没入することを、マックドゥガルは、彼が名づけた一つの原理、すなわち「原始的共感反応による情緒の直接的感応の原理」から説明している。つまり、われわれには既知の感情の伝染によってそれを説明するのである。つまりそれはこうである。ある情緒状態の徴候の知覚は、それを知覚した者にも自動的に同一の情緒をよび起す。しかもこの自動的な強迫は多数の人々におなじ情緒を同時にみとめられるときにいっそう強いものになる。そのとき、個人は批判をやめておなじ情緒にまきこまれる。だがそのさい、個人は彼にはたらきかけた他人の興奮を高め、このようにして個人の情緒の備給は相互の感応によって増大することになる。そこに、ある強迫のごときものが、つまり、他人とおなじことをし、多数の人と一致していたいという強迫めいたものが作用しているのはまぎれもない。しかも感情の興奮が粗野で単純であればあるほど、それはこのようにして集団の中にひろがる見込みが大きい。

情緒の昂揚するこのメカニズムは、さらに集団から発する他の二、三の影響によって促進されている。集団は無際限の力と打ち克ちがたい危険の印象を個人にあたえる。集団は、一瞬のあいだは人間社会全体を代表するのであって、その社会こそは人々がその刑罰をおそれ、そのために自分を抑制しているところの、権威を担っているのである。それにさからうことは明らかに危険である。周囲の者の範例にしたがってふるまい、場合によっては、「狼どもと一緒に吠えて」いれば安全なわけである。この新しい権威に服従すれば、彼の以前の「良心」を眠らせてもよいし、抑制を解いて手に入れる快感の誘惑に身をまかせてもよいことになる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 人文書院PP.206-207

※参照:優しい人たちによる魔女狩り

…………


フランスで17人が死亡した一連のテロ事件を受けて、犠牲者を追悼し、テロに抗議する大規模なデモ行進がパリで行われました。デモには160万人以上が参加し、人種や宗教の違いをこえて団結してテロに立ち向かう決意を改めて示しました。

デモは11日午後(日本時間11日午後11時すぎ)から、襲撃されたパリの新聞社の本社に近い共和国広場で始まりました。

デモには、犠牲者の家族や襲撃を受けた新聞社の社員をはじめ、さまざまな政党や人種、宗教の人々が参加し、3キロの道のりを歩きました。

また、フランスのオランド大統領と共に40を超える国や機関の首脳らも参加し、ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相のほか、イスラム諸国からヨルダンのアブドラ国王も参加しました。

また、ふだんは対立するイスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ暫定自治政府のアッバス議長の姿も見られました。

現場付近の広場や道路は大勢の人々で埋め尽くされて一時、身動きがとれないほどの状態となりましたが、参加した人々は、襲撃された新聞社への連帯を示す「私はシャルリ」と書かれたプラカードを掲げたり、フランス国歌を大きな声で合唱しながら歩きました。

撃された新聞社への連帯を示す「私はシャルリ」と書かれたプラカードを掲げたり、フランス国歌を大きな声で合唱しながら歩きました。


仏紙襲撃事件は、強烈な普遍主義同士の衝突(鹿島茂氏インタビュー記事の前段より)

1月7日、フランスの風刺新聞「シャルリ・エブド」がイスラムの預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことを理由にアルジェリア移民の2世の兄弟が編集部を襲撃。連続テロ事件に発展した。11日にはテロに抗議し、「表現の自由」を掲げるデモ行進にフランス全土で370万人が集結。EU(欧州連合)各国首脳らも参加した。13日にはフランスの国会で、議員達がフランス国家ラ・マルセイエーズを斉唱し、バルス首相が「テロリズム、イスラム過激派との戦争に入った」と宣言。シャルリエブド紙はその後、預言者ムハンマドの風刺画をまたも掲載。今度は、イスラム社会でこれに反発するデモや抗議集会が広がっている。

フランス文学者の鹿島茂氏は普遍主義同士の衝突と言っているが、それはこの際無視することにしよう。そもそも、わたくしのようなひねくれた精神は、仏人の熱狂をみると、ムハンマドへの狂信と言論の自由への狂信といったいどこが違うのだろう、と思わず言いたくなってしまう。そしてさらにいえば本当に「言論の自由」という理念が脅かされたから、あのアルジェリア移民兄弟のテロ行為にいきり立っているのか。恐怖や憎悪からではないのか。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』 p219)

ラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールは次ぎのように書いている(12.01.2015 JACQUES-ALAIN MILLER ON THE CHARLIE HEBDO ATTACK)。

・誰もが、性急かつ臆病に、己れが潜在的なターゲットであると知りかつ感じている。

・われわれの誰もが突然に殺害の脅迫のもとにいる。

彼は、ほかにもテルアビブの友人の精神分析家Susannaの言葉を引用している。

すべての指導者が、一緒になって並び立ち、腕を組んで歩き、どんなゴールの不在のもとに一体化しているのを見ると、みじめさを感じてしまう。私は思うのだが、彼らはすべての希望を失っただけではなく、さらに悪いことに、絶望さえも失っているのだ。


さてすこし前に戻ろう。普遍主義同士の衝突とする鹿島茂氏の発言に異和があるにもかかわらず、このインタビュー記事は、わたくしのような仏国や西欧の事情に疎いものには、その記事の細部がとても勉強になる。ツイッターなどで流通しているどこかの馬の骨のような「評論家」たちの戯言よりは格段にましである。いまいくらか引用しておこう。

フランスにいるアルジェリア人の問題と、ドイツにいるトルコ人の問題はまったく異なる。ドイツ人は血統主義なので、トルコ人は永遠にドイツ人にはなれない。しかし、トルコ 流にやっていてもかまわない。フランスは、フランス人になることを認める代わりに、殻の中に閉じられたようなイスラムの家族は解体されなければならないし、宗教は前面にだしてはいけない。どちらがよいかは一概に言えない。

移民も 3 代目になれば完全にフランス人になれる。マグレブ出身の 3 世、4 世などは相当 融合が進んでいる。フランスは融合婚がかなり進んでいるし。デモ行進に参加していたイ スラムの人たちもいたでしょう。
――厳しい状況に置かれているイスラム系移民が多い中で、「シャルリ・エブド」の表現は えげつなく、「表現の自由」で押し通してよいのか、とも思います。また、執拗に何度も描 いています。

何度も描いているのは、むしろ宗教などは尊重しないことで、「一にして不可分」な共和国 が成立すると考えているからでしょう。 ただし、「表現の自由」ということで、何でも許される訳ではない。1990 年に成立した「ゲソ ー法」(Loi Gayssot)では表現の自由に制限を加えている。共産党の大物議員のジャン・ クロード・ゲソーさんという人が提案したものです。人道に対する罪の問題に対応したもの。 ホロコーストがあったことの否認、およびホロコーストの肯定などの「反ユダヤ主義」、「人種 主義」、「テロリズムの礼讃」の 3 つを厳禁としている。これに違反したら捕まる。実際に、今 回の連続テロ事件に関連しては、ユダヤ系の商店を襲ったアメディ・クリバリ容疑者を擁護 するコメントをした反ユダヤ主義のコメディアンのデュドネが身柄を拘束されている。

しかし、この 3 つに違反しなければ、何を書いてもよく、その自由度は非常に大きなもので す。フランスではバルザックの時代から百家争鳴、多党分立でそれぞれに機関誌があっ て勝手なことを言っている。

自らもジャーナリズムの標的にされたバルザックが、『ジャーナリストの生理学』で、「ジャー ナリズムの息の根を止めるのは不可能ではない。一民族を亡ぼす時と同様、自由を与え さえすればよい」と書いています。逆説的ですが、弾圧を加えたら、かえって反権力でまと まってしまうが、自由にすれば、大混乱するので王様は安泰ということ。

自由なジャーナリズムを許してきたフランスでは誹謗中傷も多く、それに対する唯一の解 決策は決闘だった。法律で決闘を禁じられてからも第一次世界対戦のころまでやってい ました。申し込まれた方は、剣かピストルか、武器を選ぶことができる。だから、ジャーナリ ストになったら射撃かフェンシングを習う。 その伝統で、ジャーナリストって、書きたいこと書いてもいいけれど、命を失っても仕方が ないよという不文律があるんです。そう覚悟をして書くものだという。だから、シャルリエブド で殺された人たちも殉職者ということになる。フランスの普遍主義原理とイスラムの普遍主 義原理の正面衝突です。

いずれにせよ狂信は、それが神であれ、理念であれ、冒頭に引用したフロイトにあるように、《彼の以前の「良心」を眠らせてもよいし、抑制を解いて手に入れる快感の誘惑に身をまかせてもよい》になってしまう。フランスの以前の「良心」とはーー眠らせてはいけない良心とはーー、まずはイスラムに関するなら、アルジェリア戦争の暴虐であり、とりわけ当時の「拷問」であろう。

アルジェリアで解放戦線に対する拷問のプロだったル・ペンのような人物が、フランス本国で国民戦線のリーダーになり、イスラムの移民がわれわれフランス人から職を奪っていると言って、ナショナリズムを煽っている。(柄谷行人―浅田彰対談より(初出 『SAPIO』 1993.6.10 『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

ここで書かれているル・ペンは、父親のほうのル・ペンだが、鹿島茂氏もさすがに、娘のほうのル・ペンの名を出して懸念を表明している。

フランスは成文法の国であるから、ゲソー法のように、「反イスラム主義的言動を人 道に対する罪として禁ずる」動議が出て成文化されることが考えられます。今、我々は反 テロリズムであって、反イスラムではない、といっている。だが、今後、「反イスラム」を煽るよ うな言説が増えてくる可能性はある。排外主義的な主張をする人は増えていて、国民戦 線のマリー・ルペンはその代表。いま、いちばん危険なのは、次の選挙で国民戦線がかな り票を伸ばしそうなことだ。(鹿島茂)

狂信・熱狂なるものは、次のような現象を生み出す、それは他者そのものだけではなく、理念の偽善をもみえなくする。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

最後に、鹿島茂氏も別の文脈で引用しているエマニュエル・トッドのテロ事件後の電話インタビュー記事を掲げておこう(読売新聞2015.1.12)。

今回の事態にフランスはひどく動揺し、極めて感情的になっている。社会のあり方について考えを巡らす余裕もない。

私も一連の事件に驚がくし、実行犯らの排除にひと安心した。私はテロを断じて正当化しない。

だが、フランスが今回の事態に対処したいのであれば、冷静になって社会の構造的問題を直視すべきだ。北アフリカ系移民の2世、3世の多くが社会に絶望し、野獣と化すのはなぜなのか。

野獣は近年、増殖している。2012年、仏南西部でユダヤ人学校を襲撃し、14年はブリュッセルのユダヤ博物館で銃撃事件を起こした。

シリアでのイスラム過激派による「聖戦」に加わろうとする若者は数千人いる。移民の多い大都市郊外では反ユダヤ主義が広がっている。

背景にあるのは、経済が長期低迷し、若者の多くが職に就けないことだ。中でも移民の子供たちが最大の打撃を被る。さらに、日常的に差別され、ヘイトスピーチにされされる。

「文化人」らが移民の文化そのものを邪悪だと非難する。

移民の若者の多くは人生に意味を見いだせず、将来の展望も描けず、一部は道を誤って犯罪に手を染める。収監された刑務所で受刑者たちとの接触を通じて過激派に転じる。社会の力学が否定的に働いている。

米同時テロと比較する向きもあるが、米テロの実行犯はイスラム世界に帰属していたのに対し、フランスの実行犯はアル・カイーダ系や「イスラム国」からの資金提供があったかもしれないが、フランスで生まれ、育った。

無論、フランス外交も影響していよう。フランスは中東で戦争状態にある。オランド大統領はイラクに爆撃機を出動させ、過激派を空爆している。ただ、国民はそれを意識していない。

真の問題はフランスが文化道義的危機に陥っていることだ。誰も何も信じていない。人々は孤立している。社会に絶望する移民の若者がイスラムに回帰するのは、何かにすがろうとする試みだ。

私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける「シャルリー・エブド」のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾を吐きかけるような行為だ。

ところがフランスは今、誰もが「私はシャルリーだ」と名乗り、犠牲者たちと共にある

私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、「テロリストにくみする」と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ。