このブログを検索

2015年1月19日月曜日

わたくしは八つ裂きにされたいという気はない

二十 完全な女性は、ささやかな罪をおかすがごときに文学をやる、すなわち、こころみに、通りすがりに、はたして誰かが気づくかどうかと、誰かが気づくために、あたりを見廻しながら・ ・ ・(ニーチェ「箴言と矢」『偶像の黄昏』所収  原佑訳)
二七

「この肖像はうっとりするほど美しい……」・ ・ ・文学女性は、不満で、興奮していて、心と内臓が荒み、その組織の深みから「子供か本か」aut liberi aut libriとささやく命令に痛ましい好奇心をいだいていつも耳を傾けている。すなわち、文学女性は、自然がラテン語で語るときでさえ、自然の声を理解するほどの教養がありながら、他方、ひそかにフランス語でも独りごとを言うほどに、見栄坊で鵞鳥である。「私は自分を見、私は自分を読み、私は自分にうっとりし、そして私はこう言う、私にこれほどの才気があるということがありうるであろうか?」(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」同上『偶像の黄昏』所収)

――とのニーチェの言葉は、次の三島由紀夫によって次の如く変奏されていると言ってよいだろう。

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)

もちろんこれらはわたくしの見解と同じくするわけではマッタくない。わたくしは八つ裂きにされたいという気はない。

ーー幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そもそもヴァージニア・ウルフの次のような言葉があるではないか。

・女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。

・文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。

・つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。

・鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。(ヴァージニア・ウルフ『私ひとりの部屋』)

…………

さてなんの話かといえば、実は冒頭の二つ目に引用した「或る反時代的人間の遊撃」の二七番の前にある次の文を掲げようとしたかっただけである。

二五

人間に甘んじ、おのれの心の門戸を開放しておくこと、これは寛大ではあるが、しかしたんに寛大であるにすぎない。来客を高貴に厚遇することのできる心は、多くのカーテンをおろした窓や閉めきった鎧戸があることで知られるものである。すなわち、その最上の部屋をこの心は空けておく。いったいどうして? ――というのは、「甘んずる」のではない来客をこの心は持っているからである・ ・ ・
二六

おのれの心中を打ち明けるときには、私たちはもはやおのれを十分尊重していない。私たちの本来的な体験は徹頭徹尾饒舌的なものではない。それは、たとえそうしようと欲しても、おのれ自身を伝達することはできないであろう。これは、そういう体験には言葉が欠けているためである。それをあらわす言葉を私たちがもっているもの、そうしたものを私たちはすでに脱け出ている。すべて語ることのうちには一粒の軽蔑がある。言葉は、思うに、平均的なもの、中位のもの、伝達のきくもののためにのみ発明されたものにすぎない。言葉でもってすでに話者はおのれを通俗化している。――聾唖者やその他の哲学者どものための道徳から。

これも日本の書き手による変奏がある、たとえば《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)であったり、《まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。》(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)などと。

さて二七番に書かれる「私は自分を見、私は自分を読み、私は自分にうっとりし」云々は、この文脈の流れのなかにある。すなわち女性たちは、--それは最近では女性だけではないがーー《「この肖像はうっとりするほど美しい……」・ ・ ・》など連発してしまうのだろうか? いや捏造された疑問符はやめにするなら、自分を見せびらかしているわけだ、あれらツイッターでの「芸術的な」女性たちは。そしてその「厚顔無恥な」--シツレイ!--媚態にまんまと騙されてしまう男どもも、いまだ数多棲息する。

だがそれもいたし方ないのだろう。

フロイトは、『ナルシシズム入門』で、《ある人物のナルシシズムは、自己のナルシシズムを最大限に放棄して対象愛を求めようとしている他のひとびとにとっては非常な魅力をもつものだ》などと書いているが、他人のナルシシズムに魅惑される人もいるし、わたくしのようにその腐臭に鼻を抓んでばかりいる人間もいる。

このフロイトの言葉を「斜めから」読めば、わたくしは自己のナルシシズムを放棄していないということになるのかもしれない。

かつまた何度も引用しているが、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)という男と女の本性は、いくら時代が移り変わろうと、大きく変わりようがあるはずはない……、ーーいやこうも引用しておこう。

社会と文化における女であることと男であることのステレオタイプが、劇的な変容の渦中……。男たちは情緒を自在に解放するように促されています、愛すること、そして女性化することさえも。女たちは、反対に、ある種の「男性化への圧力」に晒されています。法的な平等化の名の下に、女たちは「わたしたちも」といい続けるようにかりたてられています。(Jacques-Alain Miller: On Love
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。

men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists

英国作家ドリス・レッシングは、かつてはフェミニストの闘士であり、2007年にノーベル文学賞を受賞している。

とはいえ、すなわち《女であることと男であることのステレオタイプが、劇的な変容の渦中》であるとはいえ、次のような現象はいまだ大きく変わっていないのではないか?

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996フロイト派の英国精神分析医:引用者)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe 私訳)
男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)