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2015年1月18日日曜日

「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子)

「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」、さらには仏語で「ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」と、神谷美恵子さんの長いあいだ非公開だった手記にはあるそうだ。






カナダ在住の比較文学者太田雄三氏の『喪失からの出発 神谷美恵子のこと』(岩波書店 2001年)によれば、神谷さんの手記には自身の性格を分析した次ぎのような言葉もあるとのこと(「神谷美恵子の青春」からの孫引き)。

こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。

私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。

しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。

私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。

自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。

ここには、ラカンのテーゼ、《〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない》あるいは《「〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり〈善〉とは「〈悪〉の別名」》に近似した神谷さんによる自己分析があるのではないだろうか。

……無条件の義務の哲学者であるカントが知らなかったものを、通俗的でセンチメンタルな文学、今日のキッチュはよく知っている。このことは別に驚くにあたらない。というのも、〈意中の婦人〉への愛を至高の義務と見なす「宮廷恋愛(騎士道恋愛)」の伝統が今なお生きているのは、まさしくそうした文学の世界なのである。コリーン・マッカロウの『淫らな強迫観念』には、宮廷恋愛ジャンルの典型的な例が見られる。この小説はまったく読むに耐えないもので、そのためにフランスでは叢書「ジェ・リュ(私はもう読んでしまった)」の一冊として出版された。この小説の時代は第二次世界大戦の末期、主人公は、太平洋岸にある小さな病院で精神病者の世話をしている看護婦である。彼女は職業上の義務と、ひとりの患者への愛との葛藤に引き裂かれている。小説の結末で、彼女は自分の欲望を理解し、愛を断念して、義務へと戻る。一見すると、なんの面白みもまにモラリズムのように見える。義務が恋愛感情に打ち勝ち、義務のために「病的な」恋愛が断念されるのだから。しかしながら、この断念にいたる動機の描写はもう少し複雑で微妙である。小説の結びは次のようになっているーー

《彼女にはそこに義務があった。(……)それはたんなる仕事ではなかった。そこには彼女の心がこもっていた。しかも奥深く。それが彼女が本当に願っていたことだった。(……)看護婦ラングトリーはふたたび歩きはじめた。颯爽と、恐れることなく、彼女はついに自分自身を理解した。そして、義務こそ、最も淫らな強迫観念であり、愛の別名であることを理解した》。

このように、ここにあるのは真に弁証法的・ヘーゲル的反転である。義務そのものを「愛の別名にすぎない」と感じたとき、愛と義務の対立が「止揚される」。このどんでん返しーー「否定の否定」――によって、最初は愛の否定であった義務が、世俗的な対象に対する他のすべての「病的な」愛を廃棄する至高の愛と合致し、ラカンの用語を使えば、他のすべての「ふつうの」愛の〈クッションの綴じ目 point de caption〉として機能する。義務そのものが根源的に猥褻なのだということを経験した瞬間、義務と愛との拮抗、すなわち義務の純粋性と恋愛感情の病的な猥褻性あるいは淫乱性との拮抗は解消する。

小説の最初のほうでは、義務は純粋で普遍的であり、恋愛感情は病的で、個別的で、淫らである。ところが最後のほうになると、義務こそが「最も淫らな強迫観念」であることが明らかになる。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』P299-300)

「外傷的な異物」という表現があることに注目しておこう。「異物」とは、フロイトの “Fremdkörper”のこととしてよい。『ヒステリー研究』1895に頻出し、この語は、トラウマに関連して使用されている。かつまた後期フロイトにも次のように現われる。

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物とみなして(比較して? :引用者)Vergleich betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ衝動にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、衝動Triebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926フロイト著作集6 人文書院 p327-328)

ーーややわかりにくい文だが、根源的な《衝動にたいする闘いは、症状にたいする闘い》に転換されてつづくと読むべきではないか。すなわち症状は二次的なものであり(ラカン派的には象徴界の症状)、真の現実界の一次的な症状(=サントーム)は、外傷的な「異物」であると読むべきではないか。かつまた衝動と訳されている語は、”Triebregung”であり、Trieb(欲動)という接頭辞がついている。それは「欲動的な衝拍」ともできるのではないか(残念ながら、岩波新訳を眺める機会をわたくしは持っていない)。

ところで中井久夫にも、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》という表現が、外傷性フラッシュバックと幼児型記憶を語るなかで現れている。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁ーー「異物」としての原光景

ーーとはいえ、「聖女」神谷美恵子の起源が、この「外傷的な異物」にあるなどと、中井久夫のエッセイ以外はウェブ上の文献をいくらか探っただけのわたくしが言い募るつもりは毛頭ない。ただし、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》という言い方は、ラカが「性関係がない」というテーゼを説明するときに述べた《書かれぬことを止めない》“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”(Lacan)という言葉と共鳴するとだけは言っておこう。そしてこれはどの主体にも根源的に持っている「構造的トラウマ」にかかわるという見解もあるとも(参照:美と傷、あるいは「饐えたる菊のにほひ」)。


さてここで、神谷美恵子伝説、ーー「病者の呼び声」に促されて、ハンセン氏病の「看護」にその生涯を捧げたーーとは、実は、「最も淫らな強迫観念」によるものではなかったのかという問いを仮にーー宙吊りのままーー発してみよう。

ジジェクは近著でも次のようにくり返している。

レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"2012 私訳ーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」)

次ぎの文は中井久夫によるものだが、ツイッターの中井久夫botから拾ったので出典不明(行分けも不明)。中井久夫はここで、「外傷過敏性」「生存者罪悪感に通じる何か」という言葉を使っているが、かつまた《ハンセン氏病の療養所に赴くには「聖女」だけでは足りない》ともあるように、あの神谷美恵子の「偉大さ」はどのようにしたらありうるのだろうか、との問いがあるとしてよいだろう。


神谷)美恵子さんはウルフと通じる面があると自ら感じておられたかもしれない。彼女の写真のたいていは微笑しているがそのすべてが自然だとは思わない(『神谷美恵子の世界』、みすず書房、の表紙写真には疲労とやるせなさを感じてしまう)けれども、固いフローズン・ウォッチフルネスはみられない。

むしろ、宮沢賢治のような「世界の人が皆幸せにならなければ自分は幸せになってはいけない」という感覚ではないか。この感じ方は外傷過敏性とどこかで結びついているのだろうか。あるいは、生存者罪悪感に通じる何かであろうか。

彼女は最晩年に一人称の病跡学を志す。彼女はウルフの自叙伝を書こうとした。その中には近親姦もきちんと取り上げてあるが、神谷さんの筆にかかると、すべてはどうしようもなく明るくなってしまう。おそらく、実際のウルフよりも、ほんとうはウルフが描きたかった世界に近いのではないだろうか。

この未完成の作品の中には神谷さんのもっとも美しい文章がある。ふくらみのある静かな語りである。ウルフの英文はもっと乾いたものと感じられる。この作品の中で最晩年の美恵子さんは抑制を去って、その言葉の力を自由に流出させているように思われる。

未完成であるこの作品には、三人称の病跡学がどうしても漂わせてしまうネクロフィリア(屍体愛好)の臭気が全く感じられない。これだけは神谷さんのために強調しておきたい。彼女が最後に捨て身の技に出た理由の一つには、通常の病跡学のスタイルの持つ臭気にいたたまれなかったことがあると思う。

若き日の彼女(神谷美恵子)は米国にあって後の歴史家モートン・ブラウンとほかならぬわが鶴見俊輔の二人に「聖女」の印象を与えている。二人ともその印象をずっと後に語っているからかりそめならぬ印象だったのだろう。しかし、ハンセン氏病の療養所に赴くには「聖女」だけでは足りない

ーー上の引用文の冒頭近くに「フローズン・ウオッチフルネス」とあるが、凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」のこと。






神谷美恵子が自らを書き綴ったものとして、自伝「遍歴」(みすず書房)と「神谷美恵子日記」(角川文庫)がある。わたくしは後者を手に入れたことがあるが、たいして熱心に読んだわけではない。「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られる神谷美恵子、「聖女」伝説さえある彼女――の書き物は、当時のわたくしには文体的な魅力を感じず、むしろごく平凡な文学少女の感想文のようにしか思えなかった。

さらには神谷美恵子の「生きがい」概念も、そこにあるメロドラマ臭に鼻を抓む気分で対面したものだ。

「生き甲斐」と「アイデンティティ」との関係(……)。アイデンティティの追求は、より高次元である生き甲斐追求に向かう。そうであるならば「生き甲斐」とはこの追求過程の導きの糸である。「生き甲斐」の言葉は故・神谷美恵子さんの著作と固く結びついているが、彼女は帰国子女の先駆者である。その生き甲斐論はアイデンティティの模索の果てに生まれたのかもしれない。

もっとも、「生き甲斐」は「甘え」と同じく日本生まれの概念である。そのような概念の常として「脳よりも心に訴える」情緒に濡れており、通俗となり浅薄となる弱みがある。「生き甲斐」には「よい子」「優等生」の言葉という感触がつきまとう。会社員の就職試験の場でも上司と酒場で飲む時にも「アイデンティティ」の出番はないが「生き甲斐」は大いに語られるだろう。 (中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

なぜ鼻を抓んだのかといえば、《情緒に濡れており、通俗となり浅薄となる弱みがある》だけではなく、当時のわたくしは次ぎのような文章にひどく影響されてイキがっていたからだ。

……現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されている(……)。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、されとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)

だが、巷間に流通する通俗的な「生き甲斐」概念ではなく、次のような読み方もある。

「生きがいのある人は生きがいなどということについては考えない。何らかの”生きがい喪失”にある人こそ、生きがいについて考えるものらしい」と彼女はいう。『生きがいについて』はハンセン氏病患者の”生きがい喪失”と七、八年直面した結果であることをぜひ理解してもらいたいと彼女は願う。しかし、その根源を探ると、その前の結核療養体験があって、その時のマルクス・アウレリウス体験がある。そのことを改めて語るのがこの小品(「生きがいの基礎」神谷美恵子)の核心である。

「君に残された時は短い。山奥にいるように生きよ。至るところで宇宙都市の一員のごとく生きるならば、ここにいようとかしこにいようと何のちがいもないのだ」(マルクス・アウレリウス、本巻二四ページ)。

二十一歳から二十三歳の「花の年齢」を彼女は独り軽井沢の山小屋で夏も冬も日課を守り、読書をして過ごす。当時の結核は死病であり、差別される病であった。それはすでに親しい人を奪っていた。

当時の結核療法はただ三つ、「大気、安静、栄養」であった。何の薬もなかった。彼女は修道院生活に近いものを自らに課する。それを支えたのは読書であり、なかんずく聖書とともにマルクス・アウレリウスの『自省録』であった。彼女がこれをギリシャ語で読むのも自己規律の一部であったろう。ストイシズムはこの時代の結核療法の現実に向かいあった方法であったが、彼女にとってそれ以上のものであった。

ストイシズムを敢えて要約すれば、世界の基本的条件を与えられたものとして受けとり、しかし遁世するのではなく、理性による自己規律にもとづく人間としての義務を果たすことによって、逆説的に世界を支配することができるということであろうか。これは何よりもまず実践倫理である。ストイシズムが奴隷エピクテトスと皇帝マルクス・アウレリウスという両極端によって代表されるのも偶然ではなかろう。奴隷も皇帝も本人の意思を超えた運命である。

T・S・エリオットがセネカについて論じた一文において、ストイシズムは、ローマ帝国時代のようにそれを動かすことが不可能である場合の哲学であるといっている(「セネカーエリザベス朝時代の翻訳による」)。動かしがたい基本的条件は結核だけではなかったであろう。療養期間の一九三五年から三七年は、満州事変の後を受けて二・二六事件、上海事変を挟んで中国との本格的な戦争が始まった時期である。「大廈の倒れんとする時一木の支えんとすることあたわず」の思いが心ある人にはあった時期である。

敗戦後まもない途方もない窮乏の中で家庭を持った彼女は寸暇を割いて『自省録』の翻訳に挑む。これを「恩がえし」と彼女はいうが、アウレリウスを再び身近なものに感じさせる基本的条件があった。この訳文には彼女のいくつかの翻訳の中でも特別な何かがある。意外なほど原文に忠実でありながら、風が呼吸しつつ野原の草をわけてわたってゆく柔らかさである。この優しさは、結婚から育児の時期の心境を映してのことでもあるだろう。ギリシャ語である原文が自家薬篭中のものとなって久しく、ほとんど自ずと訳文が湧いていったかもしれない。

『自省録』は彼女の生涯の通底低音となったにちがいない。晩年の「「存在」の重み」においても、自分にとって精神医学は何であったかの述懐があるなか、特に「人間をその内側から理解すること・・・」以下に私は『自省録』の余韻を感じてしまう。

この小品が一九七九年の春に書かれてその年の秋に彼女は逝く。その予感のように、「生きがいの基礎」はアウレリウスの「まもなく君は眼を閉じるだろう。そして君を墓へ運んだ者のために、やがて他の者が挽歌を歌うことであろう」で終わる。(「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」『樹をみつめて』中井久夫)

…………

以下はそのほとんどが以前メモしたものであるが、ここでも中井久夫が中心であり、神谷美恵子の「聖女」伝説側面を想起させる文章が多い。

精神医学界の習慣からすれば「神谷美恵子先生」と書くべきである。しかし違和感がそれを妨げる。おそらくその感覚の強さの分だけこの方はふつうの精神科医ではないのだろう。さりとて「小林秀雄」「加藤周一」というようにはーーこれは「呼び捨て」ではなく「言い切り」という形の敬称であるがーー「神谷美恵子」でもない。私の中では「神谷(美恵子)さん」がもっともおさまりがよい。

ついに未見の方であり、数えてみれば二十年近い先輩である方をこう呼ぶのははなはだ礼を失しているだろう。

しかし、言い切りにできないのは、未見の方でありながら、どこかに近しさの感覚を起させるものがあるからだと思う。「先生」という言い方をわざとらしくよそよそしく思わせるのも、このぬくもりのようなもののためだろう。そして、精神医学界の先輩という目でみられないのも、結局、その教養と見識によって広い意味での同時代人と感じさせるものがあるからだろう。それらはふつうの精神科医のものではない。(……)

神谷さんを一般の精神科医と区別するものは単にものものしさがないとか教養と見識の卓越とかだけではない。二十五歳の日に「病人が呼んでいる!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。このただごとでない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例外中の例外である。(……)


いかに献身的な医師も、どこか「いつわりのへりくだり」がある。ある高みから患者のところまでおりて行って“やっている”という感覚である。シュヴァイツァーでさえもおそらくそれをまぬかれていない。むしろ、神谷さんに近いのはらい者をみとろうとして人々、すなわち西欧の中世において看護というものを創始した女性たちである。その中には端的に「病人が呼んでいる」声を聞いた人がいるかも知れない。神谷さんもハンセン氏病を選んだ。神谷さんの医師になる動機はむしろ看護に近いと思う。この方の存在が広く人の心を打つ鍵の一つはそこにある。医学は特殊技能であるが、看護、看病、「みとり」は人間の普遍的体験に属する。一般に弱い者、悩める者を介護し相談し支持する体験は人間の非常に深いところに根ざしている。誤って井戸に落ちる小児をみればわれわれの心の中に咄嗟に動くものがある。孟子はこれを惻隠の情と呼んで非常に根源的なものとしているが、「病者の呼び声」とは、おそらくこれにつながるものだ。しかし多くの者にあっては、この咄嗟に動くものは、一瞬のひるみの下に萎える。明確に持続的にこれを聞くものは例外者である。医師がそうであっていけない理由はないが、しかし多くの医師はそうではない。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」『記憶の肖像』所収)

ここに「いつわりのへりくだり」という言葉があるが、中井久夫自身、自らの治療態度に、真にその思いをもたなくなったのは、阪神・淡路大震災の後であるという叙述がある。

長い間、私はどこか、患者の運命を無期限に引き受けているような気持ちがあった。いつかは別れる者として一日一日を診てゆくという気持ちに変わったのはいつからであったろうか。(……)

ふしぎなもので、こういう期限つきを自覚したことで、患者さんの今まで見えなかった部分がすっと見えてきたところもある。

この気持ちの変化にはずみをつけてくれたのは、阪神・淡路大震災であった。私はさまざまな手段を使って受け持ち患者たちの安否を知ろうとした。(……)

全員が安否を知らせてこられた。住んでいる家が倒壊した人は多かったのに、いのちはだれもが無事でけがもなかった。とても信じられない、不幸中の幸いであった。その時から何かが変わったと思う。再会の時、場はなつかしいという気持ちで満たされた。亡くなった方には申し訳ないが生きていてよかったねという感情が素直に表れた。何か、共に生き残った者という共通感覚のようなものを、日々の出会いの中に私は感じるようになった。一週間あるいは二週間、時には一月目に患者に会う度に「やあとにかく二週間なら二週間たって無事でまた会えてよかったね」という感じで面接が始まるのであった。

そういう感じは前からあったのかもしれないけれども、震災の後にはっきりしたと思う。おそらく、それまでは、どこか医者として少し上から診ているようなところが残っていたのであろう。あれこれの診察態度を思い返すと顔のほてる思いのする場面がある。震災直後にそういうことは小さいものになった。何よりもまず、お互いに安否を気づかう者同士であった。(中井久夫「医師は治療の媒介者」『アリアドネからの糸』所収)

ーーだがこの「いつわりのへりくだり」を戒める思いは、すでに80年代初めに書かれた『治療文化論』にも現れている。そこでは、「精神科医の自己規定」として、傭兵、あるいは売春婦のような態度が肝要であるとされ、《精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う》とされている(参照:分析家と黒人の召使い)。

…………

「生きがい感」をつかまえようとして、またはこれをたしかめようとして、あまりやっきとなると、かえって生きがいは指の間をすべりぬけて行ってしまうものではないだろうか。むしろ生きがい感とは、人生の途上で、時たま期せずして与えられる恩恵のようなものではなかろうか。(神谷美恵子『人間をみつめて』)

ーー《あまりに速く幸福を追いかけると、幸福を追い越して、幸福が後ろに置き去りになってしまう》(ブレヒト『三文オペラ』)

ーー《ある目標を徹底的に追求するならば、その過程で生じる反作用によって、その過程が足どめを食らい、結局目標を達成できないだろう》(クラウゼヴィッツ『戦争論』)




ある精神科医は彼女をまばゆい人であるという。彼女の品性と才能をみればたしかにそうであろう。別の精神科医によればたまらなくさびしそうに見えた人だというが、これもほんとうである。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」)




                      (神谷美恵子 17歳)

貧しい者への後ろめたさ

神谷美恵子は精神科の医師であり、大学教授であり、著述家でもある。しかし何よりもハンセン病(ライ病)患者のために捧げたその人生のゆえに、知られている。彼女を知る者は誰もが口をそろえて言うことがある。その明晰な頭脳と謙虚さである。明晰な頭脳は、語学力と学問の世界で遺憾無く発揮された。

しかし、彼女の偉大さはその明晰な頭脳ゆえではなく、その精神と生き方にこそ現われている。文部大臣を父にしながらも、驕る気持ちは少しもない。誰からも羨ましがられる才能と容姿を持ちながらも、派手さを嫌い、引っ込み思案ですらあったという。

父の仕事で、9歳からジュネーブで3年半生活したときのこと。父は外交官であったため、召使や運転手付きの生活であり、豪華な邸宅に住んでいた。しかし、そのことに彼女は幼いながら、居心地の悪さを感じ続けている。それだけではなく、外交官的な生活だけは絶対にしたくないとすら感じていたのである。

その頃、家に来て彼女にピアノを教えてくれる女の先生がいた。彼女はその先生に対して、一種の負い目、後ろめたさのようなものを感じていたという。細身の内気そうなその先生は、容貌からしていかにも貧しそうだったからである。自分たちだけが恵まれた環境で生活していることに、安閑としていられないのだ。彼女のこうした感性は生涯消えることはなかった。(「病人に呼ばれている! 神谷美恵子」より)



(「神谷美恵子 器の人」より)

ハンセン病との出会い

自分だけが恵まれることに後ろめたさを感ずる美恵子の感性は、彼女を取り巻くキリスト教的環境からの影響も少なくないように思われる。父の前田多門は、クリスチャンの新渡戸稲造に私淑していた。母の房子も、クウェーカー派のキリスト教信者で、多門との結婚も、新渡戸の強い勧めがあったのである。また母の弟、つまり美恵子の叔父は、内村鑑三が提唱した無教会派に属する熱心な伝道師であった。……(同「病人に呼ばれている! 神谷美恵子」より)
1914年、前田多聞、房子の長女として岡山市で生まれた。父は東京大学を卒業後内務省官吏となるが、生まれた大阪の商家は没落しており神谷の誕生当時貧しい暮らしであった。母もまた群馬県の貿易商の子として生まれたが祖父の夭折とともに家も没落、クエーカー教徒の経営する東京の女学校を給費生として卒業した。(神谷美恵子と「生きがいについて」



        (神谷美恵子:長島愛生園にて・1996・9・朝日ジャーナル)


◆中井久夫書評「『神谷美恵子』江尻恵美子著」

神谷美恵子が精神病の恐怖を秘めていたとしても当然であり、実際、多くの精神病患者が挫折したところで辛くも成功したということさえできる。それは両側が断崖である痩せ尾根を走りとおすことである。神谷美恵子が生前すでに「何ともかかがやしかった」とも「とてもさびしく見えた」とも評され、本書の読後にも「不幸なひとではなかったか」という感想を聞いたのはこのきわどさゆえであろう。

ポーはその不幸な生涯のどん底から「この世で到達可能な幸福」の四条件として「困難であるが不可能でない努力目標」「野心の徹底的軽蔑」「愛するに足る人の愛」「野外での自由な身体運動」の四つを挙げている。彼女をこれらの点についてみるならばポーよりもはるかに幸福であろう。第一についてはいうまでもなかろう。第二に、もし世俗的権力欲にいささかでも誘われたらすべては空しかったであろう。彼女が進んで辺縁に身を置き、もっとも疎外された人々とともにあろうとし、もっとも些細な仕事をも喜んで引き受けたのは図らずも自身の精神健康への大きな貢献であった。第三に「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」と御子息の一人が口走ったように、彼女の家族であることも希有な難行である。彼女を聖女から分かつものは結婚して出産してなお彼女でありつづけたことである。彼女の夫君であることに成功しつつ、自身すぐれた生物学者である夫君の存在も「才能は単独ではありえない」とする定理の例証であろう。(中井久夫『時のしずく』所収)





他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

※フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳(みすず書房)
→www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/class2005_06.doc

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。―――フーコー『臨床医学の誕生』(ビシャの言葉引用から)

さて、わたくしはこうやって引用しているが、何かを見ずにすませているのではないだろうか。

見ることの技術の体系化は、しかし、それ自体として完成されるものではない。とりあえずそれが可能なのは、病気が正常と、狂気が理性と、言葉が物とすでに分離しているという歴史的な前提があるからにすぎない。技術体系にその機能を許しているのは、あくまでこの分割である。技術の歴史は、この分割をもその文脈にとりこみえたとき、はじめてその歴史性を開示することになるだろう。また、『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』、そして『言葉と物』が歴史的な書物になっているのもその限りにおいてである。

この三冊の歴史的な書物で問われているのは、まぎれもなく見ることの技術体系である。だが、視線が技術の問題であるとしても、その技術が何を見るのかのそれではなく、何も見ずにおくための技術であったという点は改めて強調しておく必要があるだろう。それは、不可視のまわりに配置された視線の体系なのだ。事実、技術に翻訳されえないが故に病気は病気なのだし、狂気は狂気なのだし、言葉は言葉なのだ。『臨床医学の誕生』で強調されていたのが、医師がいかに病気を見ていなかったかという点にあったことを思い起こすまでもなく、見ることは見ずにおくことの技術の体系として、ながらく人間的な思考を支えていたのだ。(蓮實重彦「視線のテクノロジー フーコーの「矛盾」」)





フーコーは神谷さんがあれだけ真剣にとりくむほどの相手ではなかったように思えて惜しい。フーコーが神谷さんの訳された著作についての彼女の問いに「若気のいたり」と軽く受け流したことは、いつも真剣で全力投球をする彼女にとっては意外中の意外だったのではないか(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」)






中井久夫は、明らかに神谷美恵子さんを崇敬している。医師としての理想的な範としている。しかも、《言い切りにできないのは、未見の方でありながら、どこかに近しさの感覚を起させるものがあるからだと思う。「先生」という言い方をわざとらしくよそよそしく思わせるのも、このぬくもりのようなもののためだろう》ーー、そして《「神谷(美恵子)さん」がもっともおさまりがよい》としているように、それは中井久夫が別の女性の書評(臨床心理学者村瀬 嘉代子の書)で表現したのと似たような感覚のことを言おうとしているはずだ。

朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚中井久夫の恋文

神谷美恵子さんだけではなく、中井久夫の「秘密」も上に引用されたいくつかの文から窺うことができるのかもしれない。かつまた「無欲な人か途方もない大欲の人だ」という中井久夫への氏の友人評は、神谷美恵子さんにもあてはまるのではないか。

私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」『時のしずく』 )





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ここでは、「ルソー派とニーチェ派」で検討したフロイト「死の欲動」概念やニーチェの「権力への意志」概念の言及は可能なかぎり避けた。

そこではたとえばニーチェの言葉とフロイトの言葉の引用がある。

粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳)
われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 人文書院)

今は「神の声」なるもののニーチェ流解釈をもうひとつだけ附記しておく。そして神谷さんの場合は「病者の呼び声」であるなら神の声とは異なるとも、くり返しになるが、念押ししておこう。

良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではないということ――良心とは、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので方向を変えて内面へ向かうようになった残虐性の本能であるということ。( ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

さらに誤解のないように言っておけば、神谷美恵子さんの未公開手記の言葉、《私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶ》の「征服」という言葉を「残虐性の本能」とまで読み変えるつもりは全くない。そして彼女の未公開の手記そのものも信じすぎてはならないだろう。

哲学者がかつてその本当の最後の意見を書物のなかに表現したとは信じない。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番 秋山英夫訳)





ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。(『悦ばしき知識』秋山英夫訳)

いずれにせよ、聖女であれ悪魔であれ神話化は避けねばならぬ、ということは言える。

《誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。》(ジジェク『信じるということ』)

第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))





わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

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ーーという引用を主にした上の記述は、以下の小林秀雄の叙述に何十年かぶりで行き当たって、すこし調べてみようとしたものである。

◆メモ:ハンセン氏病(癩病)

『文学界』(昭和十一年二月号)に、一つ異様な小説が載っている。北条民雄氏の「いのちの初夜」だ。作者は癩病院で生活している癩患者である。この雑誌に以前同じ作家の作品「間木老人」が発表された時、その号の編輯後記に、作者は癩病患者であるという文句があるのを見とがめて、ある人が、実に失敬だと憤慨していたが、そういう人も、この第二作を読めば、僕らは、お互いに、実に失敬だなぞと憤慨する結構な社会に生きていることを納得するだろう。

「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。……あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんなあさはかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです」

作者は入院当時の自殺未遂や悪夢や驚愕や絶望を叙し、悪臭を発して腐敗している幾多の肉塊に、いのちそのものの形を感得するという、異様に単純な物語を語っている。こういう単純さを前にして、僕は言うところを知らない。

読者さえふえれば、創作のモチフなどは、どうであろうがかまわない文士から、「小説の書けない小説家」という小説を書かざるを得ない文士に至るまで、何もかもひっくるめて押し流す濁流のような文壇から、こういう肉体の一動作のような、張りのある肉声のような単純さを持った作品を、すくい上げて眺めると、何かしら童話じみた感じがする。癩病院の風景が、おそらくは如実に描き出されていながら、そんなものを知らない僕には何か幻想的な感じを与えるのと一般であろう。自意識上の複雑な苦痛の表現も、この作者から見れば、なんのことはないいのちをもたあそぶ才能と映ずるかもしれない。

いずれにせよ稀有な作品だ。作品というよりむしろ文学そのものの姿を見た。ある人曰く、俺には癩病になれとでも言うのかい。(小林秀雄「作家の顔」)