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2015年1月27日火曜日

新しい形態のアパルトヘイト

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)
………… 

ジジェクはフランシス・フクヤマの、八九年夏書かれて世界的なセンセーションを巻き起こした論文『歴史の終わり?』について、浅田彰との対談で次のように語っている。

私のフクヤマに対する批判は、彼がヘーゲル的でありすぎるということではなく、まだ十分にヘーゲル的ではないということです。十分に弁証法的ではないと言ってもかまいません。というのも、ヘーゲルが繰り返し強調しているのは、ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間でもあるということなのです。(「スラヴィイ・ジジェクとの対話」初出1993 「SAPIO」浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

では具体的に八九年以降どんな「分裂が露呈」されているのか。

実際、勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」の なかにあって人権や社会保障などを享受している、「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を分か つ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内 部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう。このように、とことんヘーゲル的に言うなら、自由民主主義は構造的にみて普遍化され得ないのです。(同上)


国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできている境界線とは、いま実際に日本でも容易にみることができる。最近では、この境界線をベルリンの壁の崩壊後の、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》(ジジェク『ポストモダンの共産主義 ―はじめは悲劇として、二度めは笑劇として ―』First as Tragedy, then as Farce,  2009)と呼んでいる。この書の邦訳題名の「ポストモダンの共産主義」は余分だ。ましてや「共産主義」と聞いただけで敬遠する読者がいるのだから。

ところでーー。たとえば、パリ郊外の低家賃住宅街に集って住むイスラム系住民、職も容易に見つからない若者たちが、新しい形態のアバルヘイトの虜囚になっていると感じているかどうかは、わたくしにはよく分からない。

おそらく女たちは男たちより自由なのだろう、《マグリブ人女性の 15.8% はフランス人と結婚する》と前回、引用した。男たちはどうだろう?

フィンケルクロートは、イスラム系住民による二〇〇五年の暴動事件、--秋のパリ郊外のクリシー・ス・ボワで二人の少年が警察に追跡されて変電所に逃げ込み感電死をしたことを受けての、ムスリムたちが怒り狂ってのフランス全土での騒乱事件ーーにおける物議を醸したコメントで、《暴動参加者が欲しているのは社会的公正さではない、単に「金とブランド品と女の子」だ》と語ったそうだ。

それに対して、《そうした意味で彼等は堕落した欧米社会の鏡に他ならない》とするのは、「フランスにおける反人種差別主義的ディスクールの危機」という論文の執筆者丸岡高弘氏である。

…………

ジジェクは、今回の「シャルリエブド」紙オフィスにおけるテロ事件後、次のように書いている。

the more the Western liberal Leftists probe into their guilt, the more they are accused by Muslim fundamentalists of being hypocrites who try to conceal their hatred of Islam. This constellation perfectly reproduces the paradox of the superego: the more you obey what the Other demands of you, the guiltier you are. It is as if the more you tolerate Islam, the stronger its pressure on you will be . . . (Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?

西洋のリベラル左翼が自らを有罪証明すればするほど、彼らはいっそう、そのイスラム憎悪を隠蔽しようとする偽善ぶりをムスリム原理主義者に非難される。この布置は、超自我のパラドックスの完璧な再生産である。あなたは〈他者〉の要求に従えば従うほど、あなたは罪深くなる。まるで、イスラムに寛容であればあるほど、あなたはいっそうの圧迫を受けるだろう、というかのようだ。

もちろん、ここに書かれている超自我のメカニズムはフロイトによるものだが、フロイト嫌悪症の人もいるだろうから、ここではドゥルーズを引用しておこう。

……以下の如き道徳意識のおどろくべき逆説を解き明かしたのは、フロイトの功績だ。法の支配下に身をおくことで、それだけ強く正義の自覚を持ちうるものであるどころか、法というものはかえって「苛酷きわまる振舞いをしめし、主体が潔白であればあるほど巨大化する不信を表明する……。最善にしてこの上なく従順な存在の道徳意識のこの並はずれた厳密性は……」

だがそうした点にとどまらず、以上の逆説に分析的な説明を加えたのもフロイトの功績である。すなわち、道徳意識から導きだされるのが衝動の放棄なのではなく、放棄することから生れるのが道徳意識だというのがその説明である。したがって、放棄が強力で厳密なものであればあるほど、諸々の衝動の後継者としての道徳意識の威力は強まり、厳密に行使されることになる。(「放棄することで意識がこうむる作用は驚くべきものであり、だからわれわれがその充足を差しひかえる攻撃的要素は超自我によって引きつがれ、自我に対する自己攻撃性が強調されることになるのだ」)。(『(ドゥルーズ『マゾッホとサド』「法、ユーモア、そしてイロニー」の章 蓮實重彦訳ーーメモ:超自我、良心、罪責感(フロイト)

さてジジェクの「on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?」に戻ってその結論箇所を引用しておこう。

ホルクハイマーが30年代にファシズムと資本主義について言ったこと--資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである--は今日の原理主義にも当てはまる。リベラルデモクラシーについて批判的に語りたくない者は原理主義についても沈黙すべきである。(ジジェク)

What Max Horkheimer had said about Fascism and capitalism already back in 1930s - those who do not want to talk critically about capitalism should also keep quiet about Fascism - should also be applied to today’s fundamentalism: those who do not want to talk critically about liberal democracy should also keep quiet about religious fundamentalism.

この文章は、わたくしが気づいた範囲でも、別に次の二つの書き物のなかに見られる。

1、First As Tragedy, Then As Farce(2009)
2、Anger in Bosnia, but this time the people can read their leaders' ethnic lies(2014)


ジジェクが別の書にて、「システム的暴力」と呼んでいるものも、ほとんどリベラルデモクラシーの暴力であろう。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2008)

国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)
現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である。(アラン・バディウ)(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

さて、次の文はいささか保留をしつつも、しかしやはり引用しておこう。

イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である。ピエール=アンドレ・タギエフーージジェク『ポストモダンの共産主義』からの孫引き

…………


※附記:「メタレイシズム」について


◆「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収より

ジジェク)……もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。

厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。

浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。

そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。

もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。

しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。

これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。

ジジェク)そう、このメタ・レイシズムこそ、移民が中心的問題となるポスト植民地時代固有の、いわばポストモダンなレイシズムだと言えるでしょう。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムのレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。

先に私は旧ユーゴスラヴィアの紛争に対する欧米の一見中立的な態度を批判し、性急にどちらかの側につく前にこの地域に古くから根ざした人種的・民族的・宗教的差異を深く理解しなければならないといった、傍観者のような民俗学的中立性こそが、紛争の永続化と拡大の条件になっていると指摘しましたが、その背後にも同じ論理があります。それが、旧ユーゴスラヴィアに関しては外的に、ドイツの難民問題に関しては内的に現れているのです。

浅田)一見リベラルな多元主義がその反対の結果を生み出してしまうとしたら、皮肉と言うほかありませんね。それは、言い換えれば、「歴史以後」の平衡状態に達したはずの自由主義のシステムが、その内部から新たな変動要因を生み出してしまうということでもあるでしょう。……(『SAPIO』1993.3 初出)


(たぶん続く)