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2014年12月13日土曜日

鳥瞰の眼





「不動のトラッキング・ショット」という逆説。つまり、カメラが動かない。現実から〈現実界〉への移行は、異物が枠の中に闖入してくることによって達成される。たとえば『鳥』では、長い固定したショットの間にそうした移行が達成される。鳥に脅かされた小さな町で、ガソリンの上に落ちたタバコの吸いさしから火事になる。われわれをすぐさま事件へと引きつける一連の短い「ダイナミックな」クローズアップとミディアム・ショットの後で、カメラは後上方へと後退し、上空から町全体が写し出される。最初、われわれはこの俯瞰を「客観的」「叙事詩的」パノラマ・ショットと解釈する。このショットはわれわれを下の方で起きている事件から切り離し、解放してくれる、と。カメラが遠ざかることによって、われわれはいわば「安心」する。そのおかげでわれわれは事件を、いわば「メタ言語的な」距離から眺めることができるのだ。ところが、突然、一羽の鳥が右の方から画面に入ってくる。まるでカメラの後方から、ということはつまりわれわれ自身の背後から、入ってきたように見える。それによって、同じショットがまったく違った様相を見せるようになり、根源的な主観化を被る。高い視点のカメラの眼が、眼下の景色を俯瞰している中立的で「客観的な」観察者の眼であることをやめ、突然、獲物に向けて照準を合わせている主観的で脅威的な鳥たちの眼に変わるのである。(ジジェク『斜めから見る』「ヒッチコックにおける染み」p183)
 註)このシーンは、幻想的な効果を生んでいるが、同時に、主体はかならずしも幻想的な光景の観察者として登録されているわけではなく、観察される対象の一つになっていることもある、というテーゼを例証している。われわれの視点――カメラの視点――は鳥たちの視点であり、その獲物の視点ではないにもかかわらず、鳥たちの主観的な町の眺めは、われわれを脅かす効果をもたらす。なぜなら、われわれはその光景に、町の住民として登録されているからである。つまり、われわれは脅かされた住民たちに同一化するのである。

大切なのは、鳥瞰の眼などないことを知ることだ。さらに客観的=俯瞰的に語っているつもりの似非インテリたちのイカサマ俯瞰的視線を嘲弄してやることだ。その効果的な手法のひとつは、鳥たちがカメラの後方から入って来るようにして、彼らの、あたかも客観的なつもりの視点の土台を脇から揺らし崩すことだろう。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

たとえば、〈わたくし〉が鳥たちの俯瞰の眼のたぐいの似非客観的な観点から、生意気な叙述をしたとする。だが、その眼がみつめる対象には、〈わたくし〉が書き込まれている。ラカンの〈対象a〉とは、究極的には、対象に〈わたくし〉が書き込まれているということに過ぎない。それはロラン・バルトのプンクトゥム概念も同じく、ーー《たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。》(バルト『明るい部屋』--ベルト付きの靴と首飾り)。

あなたは「当事者」の視点から逃れて客観的な立場で語っているつもりになる。だがそのとき対象にはあなただけの染み(対象a)がある。それは逆にいってもいい。あなたが「当事者」の立場でしかないというとき、あなたはメタレベルに立っている。

こういったことは本人は気づかないでいることがしばしばある。その「無意識」を指摘してやることだ。ヒッチコックの映画を観てもたらされる「不安」は、彼がその技法を自ずと身につけていたことにもあるのではないか。

ヒッチコックの『めまい』において、ジュディ=マデリンはそれと似たような変容を遂げる。「本来の場所」から引き離された瞬間、彼女はもはや〈物〉の場所を占めておらず、その魅惑的な美しさは消え、嫌らしいものに変わってしまう。要するに、ある対象の崇高な質は内在的なものではなく、それが幻想空間の中で占める位置に及ぼされる効果なのである。(ジジェク『斜めから見る』p160)

《ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起るのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。》(同『斜めから見る』p27)

フランスのTVではしばしばそうだったのですが、すなわち、精神分析家が参加しない討論はあり得なかったのです。そしてその精神分析家が常にとどめの言葉を述べ、度が過ぎた文句で討論が閉じられてしまう。そこでは精神分析家の見解に対してなんの反論もないままなのです。これは私のスタイルではありません。私はそのやり方を好みません。私が思うに、Deutung(解釈)はメディアの領域内において精神分析家の仕事です。ーーフロイトの愛すべき言葉のひとつがあります、何かを指摘しなさい、と。人びとは自身で答えを探さなければなりません。けれど、何かを解釈することは、その可能性を開きます。最近は、すべてが覆われ糊塗されています。これは愛すべきラカンの結論でもあります。ラカンは言いました、無意識はつねにーふたたび閉じられてしまう、と。われわれは、無意識を開いたままにするように努めなければなりません。須臾の間でも無意識は開いたままになれば、何かが起こり得ます、何かが動き得ます。これが解釈の機能でもあります。あなたの指先を何かに向けてみなさい。ときにそれは機能します。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE An Interview With Paul Verhaeghe2011 私訳)

中井久夫の「メタ私」概念は、フロイトの「無意識」よりも広範な氏独自の概念だが、次のように書いている。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)


…………






まず最初に『鳥』の一場面を取り上げよう。主人公の母が、鳥たちに荒らされた部屋を覗き込み、両眼をえぐられたパジャマ姿の死体を見る場面だ。カメラはまず死体全体を見せる。われわれはカメラが、魅惑的な細部、すなわち眼球をえぐりとられた血まみれの眼窩へとゆっくり接近していくのを期待する。ところがヒッチコックはわれわれの期待するプロセスをひっくり返すみせる。スローダウンの代わりにスピードアップしてみせるのだ。その各々がわれわれを主体へと接近させる二つの唐突なショットによって、彼はいきなり死体の頭部を見せる。この急速に接近するショットは価値転倒的な効果を生み出す。というのも、そのショットは、ぞっとするような対象をもっと近くで見たいというわれわれの欲望を満たしているにもかかわらず、われわれを欲求不満に陥らせる。対象に接近する時間が短すぎて、われわれは、対象の唐突な知覚を統合し、「消化」するための間、つまり「理解のための時間」を飛び越えてしまうのだ。

ふつうのトラッキング・ショットは、「正常な」速度を落とし、接近を引き延ばすことによって、対象=染みにある特定の重みをあたえる。ところがここでは、対象が「見失われる」。われわれがあまりに性急に、あまりに速く対象に接近してしまうからである。いうなれば、通常のトラッキング・ショットは強迫的であり、われわれをある細部へと無理やり固着させる。その細部はトラッキングの緩慢な速度のために染みとして機能せざるをえなくなる。一方、対象への性急な接近はヒステリー的な傾向を帯びており、われわれはあまりの速度によって対象を「見失う」。なぜならこの対象はすでにそれ自体が無であり空洞なのである。したがって、「あまりにも遅く」か「あまりにも速く」でないと呼び出すことができないのだ。なぜなら「適当な時間」をおいたとき、それは無でしかないのである。したがって、引き延ばしと性急さとは、欲望の対象=原因、<対象a>、純粋な見せかけの「空無性」を捉えるための二つの方式なのである。かくして、ヒッチコックにおける「染み」の対象的次元が明らかになる。すなわち、その染みがいかなる意味作用をになっているかということである。それは二重の意味を生み出し、映像のあらゆる要素に、解釈活動を開始させるような補足的な意味を付け加えるのである。

だからといって、染みのもう一つの側面を見落としてはならない。それは、象徴的現実があわわれるためには落ちなければならない、あるいは沈まなけらばならない、不活性で不明瞭な対象としての側面である。つまり、牧歌的な風景の中に染みを出現させるヒッチコック的なトラッキング・ショットは、いわば、「現実の領域は<対象a>の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」というラカンのテーゼを例証するために用いられているといってもいいかもしれない。(同『斜めから見る』p177-178)