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2014年12月30日火曜日

ボランティア、あるいは「わずらわしい大義の人」

まずボランティア、あるいは無償の慈善活動をめぐる示唆溢れるーーそしてまずは共感したくなるーーツイートに昨日出合ったので、ここに掲げる。

@Kino_Toshiki: 「無償で慈善活動やっている人がいると粗探しして否定しないと死ぬ病」の奴らってさ、やっぱり「無償で他人を思いやって助ける人」なんてのが世の中に実在するとは信じられないんだと思う。「そんな人間いるはずがない、自分と同じで下衆な奴に違いない」ってことにしたいんでしょう。死ねばいいのに。

@Kino_Toshiki: ある種の心苦しさなんじゃないのかな。「まさかこの世に、善意でわざわざ金と時間使ってホームレス支援やる人間なんているはずがない、あいつら宗教か政治活動目的に違いない、そんな立派な人間は存在しない、俺と同じで皆下衆なはずだ」ってことにしておかないと困るのではないかと。

@Kino_Toshiki: 在特会への抗議活動への反応も似たようなものだったよね。「お前らどこからか金もらっているんだろう?左翼団体へのオルグのために弱者を利用しているんだろう?」とかさ。「善意で、無償で何らかの行動を起こす人」なんてのが存在することが本当に信じられない、存在することを認めたくない、という。

@Kino_Toshiki: 世の中には意外に「まあ年末くらい野宿者支援するか」「たまにはボランティア活動でもやるか」みたいな人はそこそこいたりするのだが、そんなことを認めたくないわけですよ。「あいつらは宗教、政治活動家、偽善者」ってことにしておいてくれないと、下衆な自分の心性に直面して、苦しいんだろうな。

「死ねばいいのに」ともあり、これはいささか余分かもしれないが、わたくしも心の底のなかではかすかにでもそんなことを呟いている時があるので、これもとりあえず批判するつもりはない。そもそもツイッターなどを眺めていると、あるいは稀に自分のツイートが大量RTなどされ湿った瞳を送られたり「短絡的」な頷きの輪が拡がったりすると、こんな気分になってしまう場合がある。

@Cioran_Jp: 街に出て人間どもを目にすると、まっさきに思いつくのは「皆殺し」という言葉だ。(シオラン『四つ裂きの刑』)
《おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で/ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ》(谷川俊太郎「北軽井沢日録」より『世間シラズ』所収)

たんに湿った瞳を送りあったり頷き合ったりするのではなく、われわれに必要なのはまずは次のような姿勢ではないか。

・気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
・共感とは異質のある種の齟齬感
・同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
・親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり

平成10年度入学式における蓮實重彦総長の式辞


さて木野トシキさんの発言は、もちろんツイッターからであるが、彼のtwitterではなくtumblrのプロフィール欄にはこうある。

木野トシキです。社会人学生です。今年で4年生になります。卒業後は欧州の大学院に進学しようと考えています。ジャズ・トランペッターでもあります。ビ・バップ大好きっ子。

とはいえ、この方がどんな人であるかはいまはどうでもよい。ただボランティアに向かう人とそうでない人が世の中にはおり、この違いはどこからくるのか、との問いはかねてからあり、かついまでも宙吊りのままだ。

わたくしは一度だけボランティアめいた活動を一週間ばかりしたことがある。だがそれも余儀なく、あるいは偶然の機会に、である。阪神大震災のおり、京都に住んでいたのだが、離婚直後の前妻と娘が西宮に住んでいた。そのため「やむえず」駆けつけたというわけだ。そこで多くのボランティアの人々を見た。髪を金髪に染めた若者が率先して、まるで水を得た魚のように、活発に動き回っているのがひどく印象的だった。それに刺激を受け、その爪の垢でも煎じて飲むようなぐあいに、しばらくボランティアめいた行動をしたというだけである。

・それにしても、神戸を一時は埋めつくしたボランティアたちは、どのような事業によらず、毛細血管のように、すみずみまで救援を行き渡らせた。ボランティアなくして、行政の救援だけならば、全国の行政が集まってもああは行かなかったはずだ。老人の荷物を担ぐとか、家をちょっと直すとか、救援物資を配るとか……。

・奈良女子大では、地震と聞いてさっと出発したのは外国人留学生で、日本人学生は、これにはっと気づいて数日後に後を追ったそうである。(中井久夫「阪神大震災後四ヶ月」)


なぜ奈良女子大のような外国人留学生/日本人学生の差異が出てしまうのか。たとえば外国人留学生にとっては仲間が神戸に住んで被災したから、「さっと出発した」だけなのかーーでは日本人学生の仲間は神戸にひとりも住んでいなかったのかーーこれもわたくしにはいまだ判然としていない。

ところで今はツイッターをやめてしまった小説家・思想家の佐々木中氏が以前つぎのようなツイートをしている。

@AtaruSasaki: 中井=サリヴァン曰く「昇華は潜在的に病であり妄想に近く、偏執狂的になりうる」。自分の欲望を誰からも文句がつかない世のため人のための行為に「昇華」する人は、他人をするべき事をしていない様に見えてきて「わずらわしい大義の人」になる。これはボランティアも治療者も同じ、と中井氏は語る。

@AtaruSasaki: ここで中井氏が「治療者」を自戒を込めて含めていることが重要だ。われらも誰かからは病的に上から目線の「わずらわしい大義の人」なのかもしれぬ。この自己懐疑を持っているだけで違うのでは。また自分の凡夫としての欲望から目を逸らさないことが肝要ではないか。(これ、実は拙著『切手』の裏主題)

彼も、「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」としてあるツイッターという場において、「皆殺し」気分に襲われる仲間の一人であったのではないかと想像しうる人材である。

@AtaruSasaki: 知人のプログラマによると、もうギークたちはFacebookにもTwitterにもいない、Github Gistで日記書くのもやめてリアルで会ってる。が、TwitterにはまだRSSリーダの代替としての、そして市民運動の連絡ツールとしての役割が残ってる。

@AtaruSasaki: おっと、もうひとつ役割がありました。それは「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」としての機能です。どっちもどっち論者、そこまでやらなくても論者、内容はいいがやってる人間が気に食わない論者。内心にあるのは既得権益を失いたくないという自己保身。東電か。

@AtaruSasaki: 繰り返しますが、人種差別などの歴とした不正が目前で行われているのに、客観中立を装ったり党派的に日和見をしたりするのは、そのような不正に積極的に加担していることになります。その理由が狭い業界での保身ともなれば、思っているより遙かにあなたはあなたの敵だと思っていたものに酷似している。

@AtaruSasaki: 自分の信念を貫くこと、しかしこの社会で生き延びること。この二つをなんとか両立するために、ネゴシエーションというものがある。ギリギリの交渉はストレスフルで疲れます。が、いつも逃げ回っていれば、信念や既得権どころか、正義も生命もすべて失うことになる。

さて、佐々木中氏の最初に掲げたツイートに戻れば、そこにあるのは「昇華」である。ボランティアを昇華と捉える中井久夫=サリヴァンの観点が要約されている。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)
妄想の類似現象は意外なところにある。またしてもサリヴァンであるが、彼は昇華と妄想とが近縁であると言っている。昇華によって、たとえば慈善事業に打ち込んでいると、他のことをしている人間は皆すべきことをしていない人間に見えて来て、自分の仕事に参加すべきだと考えるようになり、「わずらわしい大義の人」になるという例を挙げているが、これは確かに妄想症の一歩手前である(中井久夫「説き語り『妄想症』」『世に棲む患者』ちくま」学芸文庫、2012年(初出1986年))。

ーーこうやって引用してくると、冒頭の木野トシキ氏のいう《無償で慈善活動やっている人がいると粗探しして否定しないと死ぬ病」の奴ら》の一員になりかねないが、しかしながら《「わが仏尊し」的な視野狭窄》に陥らないためには、あるいは「わずらわしい大義の人」にならないためには、つねに自己懐疑が必要であるには違いない。


ここでもうひとつ付け加えれば、中井久夫は、苦渋に陥っている人びとへの共感をもつか否かは、ーーここでの文脈では、ヴォランティアを率先して行なう人とそうではない人との相違はーー、過去のトラウマの有無にかかわるのではないかと読みとれる文章を書いている。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収P93

…………

さて、中井久夫の文に「超自我」という語彙が出現しているが、それへのヒントとして、ここで90年代初頭に書かれたジジェクの「昇華」をめぐる文章を掲げる。


昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)

この物自体das Dingの場には何があるというのか。

幻想は、われわれ各人が、想像のシナリオによって、非整合的な<大他者>、すなわち象徴的秩序の根本的行き詰まりを解消し、かつ/あるいは隠蔽する、そのやり方である。 <対象a>、すなわち剰余享楽を具現化している欲望の対象=原因を、まさしく、普遍的交換のネットワークを擦り抜ける剰余として定義づけることができる。 普遍的「人権」の領域は、ある一つの権利(享楽の権利)の排除の上に成立している。この特殊な権利を含めたとたん、普遍的権利の領域全体が均衡を失う。 主体は、まさに「それ自身のまわりだけを回り」ながら、「それ自身の中にあってそれ自身以上のもの」、すなわちラカンが das Ding というドイツ語であらわしている外傷的な享楽の核のまわりを回っている。主体とはおそらく、この循環運動の、すなわちもっと近くに寄るには「熱すぎる」、この<物自体>との距離の、別名である。この<物自体>があるゆえに、主体は普遍化に抵抗し、象徴的秩序内の場所――たとえ空っぽの場所だとしても――に還元することはできない。 (同)

こうして、これらの「昇華」の例として、無償の愛ーーここでは敢えてそれを無償のボランティア行為と読み替えてもよいーー 、それは「最も淫らな強迫観念」ではないかと読みうる文章が書かれる。

……無条件の義務の哲学者であるカントが知らなかったものを、通俗的でセンチメンタルな文学、今日のキッチュはよく知っている。このことは別に驚くにあたらない。というのも、〈意中の婦人〉への愛を至高の義務と見なす「宮廷恋愛(騎士道恋愛)」の伝統が今なお生きているのは、まさしくそうした文学の世界なのである。コリーン・マッカロウの『淫らな強迫観念』には、宮廷恋愛ジャンルの典型的な例が見られる。この小説はまったく読むに耐えないもので、そのためにフランスでは叢書「ジェ・リュ(私はもう読んでしまった)」の一冊として出版された。この小説の時代は第二次世界大戦の末期、主人公は、太平洋岸にある小さな病院で精神病者の世話をしている看護婦である。彼女は職業上の義務と、ひとりの患者への愛との葛藤に引き裂かれている。小説の結末で、彼女は自分の欲望を理解し、愛を断念して、義務へと戻る。一見すると、なんの面白みもまにモラリズムのように見える。義務が恋愛感情に打ち勝ち、義務のために「病的な」恋愛が断念されるのだから。しかしながら、この断念にいたる動機の描写はもう少し複雑で微妙である。小説の結びは次のようになっているーー

《彼女にはそこに義務があった。(……)それはたんなる仕事ではなかった。そこには彼女の心がこもっていた。しかも奥深く。それが彼女が本当に願っていたことだった。(……)看護婦ラングトリーはふたたび歩きはじめた。颯爽と、恐れることなく、彼女はついに自分自身を理解した。そして、義務こそ、最も淫らな強迫観念であり、愛の別名であることを理解した》。

このように、ここにあるのは真に弁証法的・ヘーゲル的反転である。義務そのものを「愛の別名にすぎない」と感じたとき、愛と義務の対立が「止揚される」。このどんでん返しーー「否定の否定」――によって、最初は愛の否定であった義務が、世俗的な対象に対する他のすべての「病的な」愛を廃棄する至高の愛と合致し、ラカンの用語を使えば、他のすべての「ふつうの」愛の〈クッションの綴じ目 point de caption〉として機能する。義務そのものが根源的に猥褻なのだということを経験した瞬間、義務と愛との拮抗、すなわち義務の純粋性と恋愛感情の病的な猥褻性あるいは淫乱性との拮抗は解消する。

小説の最初のほうでは、義務は純粋で普遍的であり、恋愛感情は病的で、個別的で、淫らである。ところが最後のほうになると、義務こそが「最も淫らな強迫観念」であることが明らかになる。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』P299-300)


〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である、とあるが、これがフロイト=ラカン派のテーゼのひとつである。もっとも上の比較的若い時期に書かれたジジェクの「挑発的」とさえ読みうる文はいささか分かりにくいかもしれない。

引き続きジジェクによって最近書かれた書(2012年)における超自我をめぐる文を掲げる。この文と上の文を併せて読めば、無償の慈善的行為の裏にはどんなものが隠されているのかという精神分析的な視点がより鮮明になるのではないか。これが正しいとはわたくしは言わない。だがこういった自己懐疑はつねに必要であるには相違ない。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。

レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

ここでも中井久夫の文と同様に、肝腎なのは「トラウマ的な固い核」である。とはいえ中井久夫の見解とラカン派の見解とのニュアンスの相違、--おそらくそれが「超自我」を考えるのにもっとも肝要なことであるのではないかと思われるがーー、それはここでは、いや、いまだわたくしにはどこであっても、問い切れていない。そのニュアンスの相違とは、フロイト的に超自我≒自我理想とするかーーこれはわたくしの誤読でないかぎり、中井久夫だけでなく柄谷行人もそうである(参照:「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト))ーー、ラカン派的に超自我を現実界の審級、自我理想を象徴界の審級とする立場をとるかの差異に由来し、後者では超自我の非合理性、ドイツ観念論者による理性の欲動、その猥雑な面が強調される。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)
カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

◆附記:これはラカン派の若く有能な精神科医のツイートのはずだが、鍵アカウントになっているので敢えて彼の名を掲げない。

RT 鍵 : ネトウヨ=底辺説と同じように、レイシスト=人格障害説も、彼らを他者化して考えてるだけなんでダメ議論ですよね。むしろ、どうして私たちがネトウヨやレイシストにならないですんでいるのかを考えるべき。つまり、私たちもそうなりうるものとして。現状、それを論じてるのはラカン派 

とはいえこういう考え方はラカン派だけではないとすることもできる、たとえばニーチェの「権力の意志」は、フロイト=ラカン派の「死の欲動」と類似したものと読みうる→ Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

…………

最後に権力の意志≒死の欲動(あるいは享楽)などといささか厄介な話ではなく、ここでは『道徳の系譜』から、「理想」をめぐるニーチェの「愉快」な叙述を抜き出しておこう。なによりも大切なのは、〈あなた〉の理想を、あるいは脊髄反射的=「身体的」に出てしまうつもりになっている〈あなた〉の善意や良心を、ときに疑うことである。それが視野狭窄に陥らない、「わずらわしい大義の人」の臭気をまぬがれるほとんど唯一の道ではないか(参照:Homo homini lupus、あるいは攻撃欲動(ニーチェとフロイト))。

地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――

――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」

――それから!

――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」

――それから!

――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」

――それから!

――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」

――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」

――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。

――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」

――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫P52)