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2014年12月10日水曜日

「ささった槍は 今も揺れてる」--忘れえぬ女たち

辛樹芬(シン・シューフェン)ってのは、---(書くのをやめとこう)

あなたの口は「いや」という、あなたの声とあなたの眼は、もっと優しい一言を、もっと上手に語っている
Votre bouche dit non,votre voix et vos yeux disent un mot plus doux,et disent bien mieux(Andre Chenier)




女の眼の語ったことを、誰が忘れようか。シェイクスピヤもいったように、その眼のなかに全世界を読みとることさえあり得るからだ。(加藤周一『絵のなかの女たち』) 
They(Women's eyes)are the books,the arts,the academies.They show,contain,and nourish all the world.(Shakespeare”Love's Labour's Lost”『恋の骨折り損』)










それに、この侯孝賢「戀戀風塵」冒頭の汽車のシーンってのは、オレの高校時代の風景なんだな(辛樹芬もな)。


李佩軒(リー・ペイシュアン)のやややつれた感じもいいけどさ(ベトナムに最初に来たとき、夜はバーで毎日のようにビリヤードやっていたんだよな)。






まあ世界にはどこに行ってもいい女がいるけどさ。美男美女の国インドに旅行したら、ちょっと見には、ソルヴェーグ・ドマルタンのような女がうじゃうじゃいるぜ。






 ソルヴェーグ・ドマルタン (Solveig Dommartin)って、45歳で死んでいるのだな、彼女はもともとヴィム・ヴェンダースの『東京画』(1985年)の編集を担当したことをきっかけにヴェンダースに見出されたインテリなんだけれど、自殺ではなく「心臓発作」とされている。




「ベルリン・天使の詩」 わらべうた 原詞 ペーター・ハントケ


子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った

子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った

子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
 この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?

子供は子供だった頃
ほうれん草や豆やライスが苦手だった
カリフラワーも
今は平気で食べる
どんどん食べる

子供は子供だった頃
一度は他所(よそ)の家で目覚めた
今は いつもだ
昔は沢山の人が美しく見えた
今はそう見えたら僥倖
昔は はっきりと
天国が見えた
今はぼんやりと予感するだけ
昔は虚無におびえる

子供は子供だった頃
遊びに熱中した
あの熱中はは今は
自分の仕事に 追われる時だけ

子供は子供だった頃
リンゴとパンを 食べてればよかった
今だってそうだ

子供は子供だった頃
ブルーベリーが いっぱい降ってきた
今だってそう
胡桃を食べて 舌を荒らした
それも今も同じ
山に登る度に もっと高い山に憧れ
町に行く度に もっと大きな町に憧れた
今だってそうだ
木に登り サクランボを摘んで
得意になったのも 今も同じ
やたらと人見知りをした
今も人見知り
 初雪が待ち遠しかった
今だってそう

子供は子供だった頃
樹をめがけて 槍投げをした
ささった槍は 今も揺れてる



――と冒頭のとてつもなく美しい詩(Lied Vom Kindsein - Wings Of Desire 1987)を始めとして脚本を担当したペーター・ハントケは、ベルリンの壁崩壊後、その親セルビア態度などによりマスコミに集中砲火を浴び、ヴィム・ヴェンダースとも仲違いしていることはよく知られている。ヴェエンダースも東西対立時代のような名作をしだいに作れなくなってゆく、それは多くの作家たちと同じように。




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)