2018年5月26日土曜日

ひとりの女は暗闇のなかに異者として蔓延る

晩年のラカンは、《ひとりの女 une femme》について、次のように言っている。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

これらのラカンの言明は、長いあいだ何のことだかさっぱりわからなかったのだが、「女性の究極的パートナーは孤独である」で引用した、アルゼンチンの女流ラカン分析家Florencia Farìas、2010の小論は、この点にかんしてとても明瞭である。

ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。ゆえに自らの身体によって、「他の女の神秘 le mystère de l'Autre femme」を崇敬する。「他の女の神秘」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、彼女は「他の女autre femme」を通して・「現実界の他者 autre réel」の介入を通して、自分は何なのかの神秘へと身体を供与しようとする。

ヒステリーから女性性への道のりには、置き残されているものがある。症状、不平不満、苦痛、侵入的母あるいは不在の母 mères harcelantes ou absentes、理想化された父あるいは不能の父 pères idéalisés ou impuissants、そして場合によっては、子供をファルスの場に置く享楽。……
ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe
 がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。

女は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに従う。すなわち「他の身体の享楽 la jouissance d'un autre corps」へと彼女の身体を貸し与える。他方、ヒステリーの女性は、彼女の身体を貸し与えない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカン主流派の頭領ジャック=アラン・ミレールでさえ2014年になってようやくーーわたくしの知りうる限りでだがーー、次のように曖昧な形で言うようになったのだから、一年半ほどまえ出会った、ほとんど名のしれていない分析家 Florencia Farìas の2010年時点の記述はきわめて役立った。

「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant ーー「愛のテュケーと愛のオートマン」)

Farìasが記している《彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である》とは、わたくしの読解では、ラカンによる《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》に相当し、これが「ひとりの女」ということになる。

古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscient は、まさに我々の身体 corps のなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle 何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。 (ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

女とは「異者としての身体」のこと」でも記したが、この《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》とは、フロイトの「異物」のこと。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


そして冒頭に引用した《ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome 》(ラカン、1976)におけるサントームとは、フロイトの「固着」のこと。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(結びつき connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール L'être et l'un IX, 2011))
固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)

したがって「ひとりの女は固着のこと」となる。そして固着の核心は、最初の大他者(母なる大他者)の刻印(母による徴付け)と捉えうる。

その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。⋯⋯⋯刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17、10 Juin 1970)

この徴が、享楽回帰=反復強迫をもたらす刻印である。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

そして、ラカンにとっての神は女である。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女  La femme 》 だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976)

この女とは、究極的には原母のことだろうと、わたくしはバーハウの記述にもとづいて考えている。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)

人間最初の「身体の出来事」とは、母なる大他者に関係しているのは、まず間違いない。

身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

ーーたとえば後期ラカンの核心概念のひとつララングとは「母の言葉 la dire maternelle」のことである(参照:ララング定義集)。

コレット・ソレールの言い方では、母なる大他者とは、原リアルの名・原穴の名(原トラウマの穴)である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ちなみに最晩年のフロイトは「固着」用語を次のように使っている。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーこの「母へのエロス的固着の残余」とは、巷間で揶揄的にいわれる「マザコン」ーーつまり母のイマージュに囚われることーーではないことに注意しなければならない(参照:母の三界

ここでさらにミレールを引用しておこう。

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corp (ミレール, L'être et l'un Ⅴ, 2011
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI 2011
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation(ミレール 、Progrès en psychanalyse assez lents、2011

ミレールの言明からも、女が固着にかかわるのは明らかだろう。

ラカン曰くの《ひとりの女はサントーム(原症状)である》とは、まずこの文脈のなかでとらえることができる。

母(原母)と女との関係とは、仏典にある《一切女人、是れ我が母なり》であり、つまり《すべての女には母の影が落ちている》(バーハウ、1998)である。

ところで、中期フロイトは、固着≒原抑圧をめぐって次のように記している。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ここには「異物」という語は直接には出現しないが、《患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかす》と記されているものが、「異物」に相当する筈。

以上から、わたくしの現在の読解では、「ひとりの女は暗闇のなかに異者として蔓延る」という当面の結論になる。

※いくらか異なった側面からの「女」については、ーー、《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴(原抑圧による穴)にかかわる「女」についてはーー「人はみな穴埋めする」を参照のこと(とはいえ究極的には上に記した考え方に帰着する)。