2017年11月19日日曜日

マレビトとしての身体の ek-stasis(エク・スターシス)

女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す」になんか文句あるんか、おまえ?

わたくしは下界のものどもとは混じり合わないようにしている。あの「崇高美」がわからない連中にはまったく関心がない。

なんといってもすばらしいのである。




わたくしの場合、真に《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン)というべきものに遭遇したのはあの瞬間でしかない。

因果ですね、と抱かれた後で女がつぶやいたのもあの晩のことになる。それまでに幾夜かさねてもほぐれず、その晩もかわらず硬かった女のからだが、遠くから風の渡ってくる音にすくんだのを境に、ひと息ごとにほどけて、男の動きにこたえてどこまでも受けいれるようになり、人の耳をおそれて音をひそめあうような、長いまじわりとなり、ようやくはてて、なごりの息のおさまっていく下から女が何を言い出すことかと、男がこんな始末になったことにあきれて待つうちに、その言葉が女の口から出た。

前世で寝たことがあるんですよ、今夜初めて知りました、とその面相のまま言った。(古井由吉『蜩の声』除夜)

女はこの音楽のようにして奇跡のエクスタシーを起こした。

◆Glenn Gould - Bach Toccata BWV 914



存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径 Holzwege』)

わたくしは「存在」という語を好まないが、それはこの際許容しなければならない。

”Helle Nacht des Nichts der Angst”(「不安の無の明るい夜」)あるからこそ、”Seiendes ist”(すべてあるものがある)ということができるのである。無に包み込まれた現存在は無を越え出て、存在の明るみに照らされて実存する。ハイデガーは”Ek-sistenz”という言葉を独自に脱我的実存、存在の明るみに立つという意味で使う。存在者を越え出た存在をハイデガーは超越と名づける。超越には、本来的な、最高の存在の意味がある。最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる(ヘルダーリンの”Wie wenn man am Feiertag kehrt”)と同じように、人間の方へ帰ってきて、輝き出る。(西田幾太郎 -ハイデガーの実存主義と仏教をつなぐ橋- カラディマ・クリスティーナ、pdf)

あれは存在の明るみではなく、リアルの明るみである、《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(ラカン)。象徴界の穴、その非一貫性において、垂直的(超越的)ではなく水平的(超越論的)に、魂‐身体が外に出るのである。

思いが魂-身体にもつ関係は、外立だけでしかない。La pensée n'a à l'âme-corps qu'un rapport d'ex-sistence.(ラカン、1973)

静謐さのなかファルス秩序の覆いーー《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(フロイト、1924)ーーがはずれ、裂目が顕現する。そのとき真のエクスタシー的開け(ekstatisch offen)が輝きいでる。すなわち脱自する、それが ek-stasis(エク・スターシス)である。

古井) 今度、『存在と時間』の自分が好きな章だけ読み返してみて、自分がいまだに惹かれているところが二つあります。ここで一つ白状いたしますと、私はハイデガーを翻訳で読ん だことはほとんどありません。というのは翻訳を読んで理解できるほど頭がよくありませんから (笑)。日本語で話していきますと、語彙に詰まりますので、お断りしておきます。

一つは「決意」と訳されるEntschlossenheit です。これは言葉としてはersclossen(開かれ る)という意味に通じています。それとentdecken にも通じていて、これはふつう発見されるの意味ですが、蓋を開ける、覆いをとってしまうという意味もある。さらにハイデガーでは、フライ・ウント・オッフェン(frei und offen)つまり、フリー・エンド・オープンと言っています。さらに エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)、ecstasically open と言っています。エクスターゼによって開いてある、とおおよそそんな意味になりますか。エク・スターシスとは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。その広がりに興味を持ちまして。 また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている 赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならないという。ハイデガーもシュヴァーベンあたりの人だか ら、中世の神秘主義の伝統を引いているのかなと思います。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」『思想読本3 ハイデガー』作品社、2001 年、122-123 頁)

扉が開くのである。それは女にしか起こらない。プルーストのいう《純粋状態での短い時 Un peu de temps à l'état pur》、その顕現が《マレビトとしての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン)として如実に起こるのは。

扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているの が、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)

《⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。

on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »》(ラカン、S23、16 Mars 1976)